飼犬の死亡につき獣医師の診療上の過失ありとされた事例(昭和43・5・13東京地判)判時528・58[死亡による財産的損告および精神的苦痛に対する慰籍科として合計金5万円を認容]

last update 02 December 1999


□飼犬の死亡につき獣医師の診療上の過失ありとされた事例

(損害賠償請求事件、東京地裁昭四一(ワ)五九四七号、昭和43・5・13民十二部判決、一部認容、一部棄却)判時528号58頁。

《参照条文》 民法七〇九条・民事訴訟法一八五条

 

原告          P

右訴訟代理人 弁護士  ------

被告          D

右訴訟代理人弁護士   ------

            ------

          

主 文

被告は、原告に対し、金五万円およびこれに対する昭和四一年七月五日以降完済に至るまで年五分の割合による金員の支払いをせよ。

原告のその余の請求を棄却する。

訴訟費用はこれを五分し、その一を被告の負担とし、その余を原告の負担とする。

この判決は、前掲第一項に限り、仮に執行することができる。

 

事 実

第 一 原告訴訟代理人は、「被告は原告に対し、金三○○、○○○円およびこれに対する昭和四一年七月五日から支払いずみにいたるまで年五分の割合による金員 を支払え。訴訟費用は被告の負担とする。」との判決ならびに仮執行の宣言を求め、その請求の原因として次のとおり述べた。

 「一 原告は、昭和三六年四月頃、訴外Aより、同人の所有にかかる、ジュンという呼名の英ポインター種牝白茶猟犬一頭(以下、ジュンという。)を代金三○、○○○円で買い受けた。

  二 被告は、肩書住所において○○家畜病院を経営する獣医師であるが、昭和四一年四月二日(以下、年月日につき、特に年月を示さない限り昭和四一年四月の ことをいう)。ジュンの出産に際し、ジュンを診察し、ジュンに帝王切開手術(以下、本件手術という。)を施し、七日までジュンを診療した。

 三(一) ジュンは、二目、被告の診察を受ける前に、原告の肩書居宅において、仔犬一頭(以下、仔犬(一)という。)を分娩していたが、右仔犬はまもなく被告立会のもとに死亡した。

 (二) 被告は、ジュンの膣内より、仔犬一頭(仔犬(二)という。)を引き出したが、右仔犬はまもなく被告立会のもとに死亡した。

 (三) 被告は、本件手術により、ジュンの胎内より仔犬四頭を取り出したが、内三頭(以下仔犬ら(三)という。)はまもなく被告立合のもとに死亡した。

 (四) ジュンは、十三日、東京都渋谷区--番地、財団法人日本動物愛護境界附属動物病院(以下、動物病院という。)病舎において、腹膜炎ならびに敗血症のため死亡した。

 四 ジュン、仔犬(一)、(二)および仔犬ら(三)の死亡は、次のとおり被告の過失によるものである。

 (一) 仔犬(一)の死亡は、被告に獣医師として瀕死の右仔犬に対して適当な処置を施す義務があるにもかかわらず、被告がこれを怠り、仔犬(一)を放置したために、発生したものである。

  (二) 仔犬(二)の死亡は、被告に獣医師としてジュンが仔犬(二)を出産する際この自然出産を助成する義務があり、ジュンの腔内より仔犬(二)を引き出 す際これを死亡させぬようにする注意義務があり、また、引き出した仔犬(二)に対し応急の手当を加える義務があるにもかかわらず、被告がこれを怠り、不要 にもかかわらず強引にジュンの腟内から仔犬(二)を引き出し、かつ、これを放置したために、発生したものである。

  (三) 仔犬ら(三)の死亡は、被告に獣医師として本件手術後直ちに仔犬ら(三)に対し、応急の手当を加える義務があり、かつ、被告一人でこれができない 場合に備えて、本件手術に際して助手を使用し、助手に右応急の手当を加えさせる義務があり、また、本件手術に際し、臍下三○針ぐらい縫う距雄を切開し、ま ず子宮を取り出した後その一部を切開して中の胎児を取り出す義務があるにもかかわらず、被告がこれを怠り、助手を使用せず、わずか五針縫う距離を切開した のみで、子官を取り出すことなく切開し、開腹目から手を入れて内部の仔大ら(三)を強引に引き出して破水させた後、まだ生きている仔大ら(三)を直ちに洗 面器の中に放り込んで放置したために、発生したものである。

 (四) ジュンの死亡は、被告に獣医師として左記の注意義務が、あるにもかかわらず、被告がこれを怠り、左記のとおりの杜撰な手術を行い、その後の手当も左記のとおり杜撰であったために発生したものである。

  (イ) 被告にジュンの自然出産を助成すべき義務があるにもかかわらず、これを怠り、翌日被告が家族と共にドライブに行く都合から、不要な本件手術を行なった。

  (ロ) 被告にジュンを手術設備の整った被告の経営する病院に入院させたうえ本件手術を行なう義務があるにもかかわらず、被告はこれを怠り、何ら施設のない原告の肩書居宅の一室において本件手術を行なった。

  (ハ) 被告に本件手術に際し手術用具を完全に消毒する義務があるにもかかわらず、被告はこれを怠り、消毒しないまま軽便カミソリを使用してジュンの腹部の毛を剃り、そのまま軽便カミソリを使用して、ジュンの腹部を切開した。

  (ニ) 被告に本件手術後ガーゼを完全に腹腔内より取り出したうえ、まず子宮工手術創を縫合し、次に腹部皮膚手術創を縫合する義務があるにもかかわらず、被告はこれを怠り、ジュンの腹部にガーゼ数枚を放置し、子宮壁手術創を縫合しないまま、腹部皮膚手術創を縫合した。

  (ホ) 被告が、四日朝、ジュンを診察した時、ジュンの腹部手術創から水様液が多量に流れ出たのに対し、被告にこれに対し必要な処置をなす義務があるにもかかわらず、これを怠り、ジュンを放置した。

  (ヘ) 被告が、七日、ジュンを診察した際、ジュンの腹部手術創から腸が露出していたのに対し、被告に直ちに再手術する義務があるにもかかわらず、単に腸を手術創より腹腔内に押し込んで手術創をそのまま三針縫合したのみで、右義務を怠り、ジュンを放置した。

  五 本件手術当時のジュンの価格は金一○○、○○○円、仔犬(一)、(二)および仔犬ら(三)計仔犬五頭の価格は合計金一○○、○○○円であり、原告は、 子供もなく、ジュンを我が子のごとく大切にしていたのであり、ジュンの死亡により被った精神的苦痛は甚大であってその精神的損害は金一○○、○○○円に相 当する。

 よって、原告は、被告に対し、不法行為に基く損害賠償債務の履行として、金三○○、○○○円およびこれに対する訴状送達の翌日てある昭和四一年七月五日から支払ずみにいたるまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。」

 

第二 被告訴訟代理人は、「原告の請求を棄却する。訴訟費用は原告の負担とする。」との判決を求め、原告主張の請求原因事実につき、次のとおり答弁した。

 「一 第一項記載の事実は否認する。

 二 第二項記載の事実は認める。

  三 第三項については、(1)記載の事実中仔犬(一)の死亡時に被告が立ち会っていた点は否認し、(二)(三)記載の事実中仔犬(二)および仔犬ら(三) の死亡が被告が右仔犬らを引き出し、または、取り出した後に被告立会のもとで発生した点は否認し、その余の第三項記載の事実は認める。

  四 第四項(一)ないし(三)記載の事実はすべて否認する。被告がジュンの診察をした時には、仔犬(一)は既に死亡しており、被告がジュンの膣部を内診し たところ、仔犬(二)は逆児のため後肢が出口に触れて出ることができない状態であったため、被告は直ちに子宮鉗子を使用して難産の処置法に従って仔犬 (二)を引き出したが、右処置に着手する以前に仔犬(二)は死亡しており、また、被告が本件手術によりジュンの胎内より仔犬ら(三)を取り出した時には、 仔犬ら(三)は既に死亡していた。第四項(四)記載の事実については、被告が原告肩書居宅の一室において、軽便カミノリを使用して本件手術を行なったこ と、被告が本件手術後ガーゼの一部少量をジュンの腹腔内に遺留したこと、被告が四日朝ジュンを診察した際「ジュンの腹部手術創から水様液が流れ出ていたこ と、被告が、七日朝ジュンを診察した際、ジュンの腹部手術創がら腸が露出していたのに対し、これを腹腔内に押し込んだうえ手術創をそのまま三針縫合したこ とはいずれも認め、その余の事実はすぺで否認する。ジュンは一日朝から陣痛を起し、二目夕方被告が診察した時には、呼吸速迫し、長時間の陣痛の苦しみによ り相当衰弱しており、被告が仔犬(二)をジュンの腔内から取り除いた後も次の仔犬を分娩せず、陣痛促進剤アトニンを六本も二○分ないし三○分の間隔をおい て注射したにもかかわらず陣痛微弱で分娩にいたらず、ジュンは次第に衰弱してくるし胎児も胎動がないので、このまま放置すると母子ともに死亡する危険があ ると判断され、しかも、この衰弱状態ではジュンを移動することは適切でなく、かつ、緊急を要するために原告の同意を得て、原告肩書居宅の一室において、胎 児の死亡を避けるため全身麻酔をやめ、クロールプロマジン一○○○CCを筋肉注射し、局所に塩酸プロカインの麻酔を施したうえ、アルコールで消毒した軽便 カミソリを使用して、本件手術を行なったものである。また、被告ジュンの腹部皮膚および子宮壁を切開して胎児の入っている子宮を検したところ、既に胎児は 破水死亡して微動だにせず、子宮は暗紫赤色となり壊死を起こして脆弱になっていたので、染毒を防止するため煮沸したガーゼを挿入して仔大ら⑰を取り出した のであり、ジュンの死亡原因である腹膜炎ならびに敗血症は、この支給の壊死により発生したものである。さらに、被告は、ジュンの腹腔内にペニシリン溶液を 注入して、切開面の二重縫合を行ったうえ、マーキュロクロームで消毒して創面に外用フラジオマイシン粉末を塗布して本件手術を完了し、ジュンの衰弱が甚だ しいため酸素吸入を行い、リンゲル五○○CC皮下注射、ペニシリン、ストレプトマイシンの注射、犬血清アルブミンの静脈注射を行ない、強心等の処置を施し た。その後、被告は四日、五日および七日ジュンを往診処置し、七日朝の往診の時、手術創が一部移開し腸が一部露出していたため、応急の処置として三針縫 い、原告と再手術の約束をして、準備を整えて再び原告肩書居宅に赴いたところ、原告は右約束に反し不在であった。

 五 第五項記載の事実はすべて否認する。」

第三 被告訴訟代理人は、抗弁として次のとおり述べた。

 「一 原告は、昭和三七年八月一六日、訴外B、C、D(以下、Dという。)に対し、ジュンを売り渡した。

  二 仮に、右主張事実が認められないとしても、ジュンは昭和三七年八月一六日から死亡にいたるまでDを所有者として登録され、Dがジュンにつき納税義務および狂犬病予防注射義務を負担してこれを果しているから、Dは昭和三七年八月一六日、ジュンの所有権を取得した。

  三 仮に、右主張事実が認められないとしても、右のごとき事実のもとでは、原告のジュンに対する所有権は、被告に対抗できない。

   四  仮に、右主張が認められないとしても、昭和三七年八月一六日からジュンの死亡にいたるまで、原告もDもジュンがD名義で登録されていることを知り ながら、ジュンの所有名義変更をしなかったので、禁反言の原則に照らして、原告は被告に対しジュンの所有権を主張することができない。

   五 原告は、昭和四一年四月一五日、被告に対し、書面により、被告が動物病院に対し、ジュンの入院料、手術料等一切の原告が同病院に対して負担した債務 を弁済することを停止条件として、本件手術により被告が原告に対して負担した不法行為に基く損害賠償債務を免除する旨意思表示をなし、そのころ同所面は被 告に到達した。

  六 被告は、昭和四一年四月十八日、動物病院に対し、原告が同病院に対して負担した右債務全額を弁済した。

 

第四 原告訴訟代理人は、被告主張の抗弁事実につき、次のとおり答弁した。

 「一 第一項記載の事実は否認する。

 二 第二項記載の事実中Dが昭和三七年八月十六日ジュンの所有権を取得したとの被告の主張は争い、その余の事実はすべて認める。

 三 第三項記載の主張は争う。

 四 第四項記載の事実中原告およびDがジュンがDの所有名義で登録されていることを知っていた点は否認し、ジュンの所有名義変更をしなかった点は認め、その余の主張は争う。

 五 第五項記載の事実は否認し、第六項の記載の事実は認める。

 

第五 証拠《略》 

  

理 由

一 《証拠略》によれば、ジュンは、昭和三六年四月頃、原告において、訴外Aより代金三○○、○○○円で買い受けたものであって、原告の所有に属する猟犬である事実を認めることができる。

  (《証拠判断略》。なお、被告は、前記第三の一、二において、昭和三七年八月十六日Dはジュンの所有権を取得したと抗争するが、被告の右主張事実を認める に足る証拠はなく、そもそも、納税や狂犬病予防注射のための登録名義は、犬の所有権についての対抗要件をなすものではないし、所有権の公示を目的とするも のでもないから、前記第三の三、四の被告の主張も理由がないいものというぺきである。)

二  被告が肩書住所において○○家畜病院を経営する獣医師であり、昭和四一年四月二日、ジュンが出産するに際し、ジュンを診察し、ジュンに本件手術を施し、 七日までジュンを診療したこと、ジュンが、二日、被告の診察を受ける以前に、原告肩書居宅において、仔犬(一)を出産し、被告が、ジュンの腔内より仔犬 (二)を引き出し、さらに、本件手術により、ジュンの胎内より仔犬ら(三)を取り出したが、右仔犬らはいずれも死亡したこと、ジュンが、十三日、動物病院 病舎において、腹膜炎ならびに敗血症のため死亡したことは、いずれも、当事者間に争いがない。

三  そこで、仔犬(一)の死亡について判断すると、原告は、被告が、二日、ジュンを診察した際、仔犬(一)はまだ生きていた、と主張するが、この点に関する 《証拠略》はあいまいで的確な証拠とはなし難く、他に原告の右主張事実を認めるに足る証拠はなく、却って、《証拠略》によれば、被告が、二日、ジュンを診 察した時には、既に仔犬(一)は死亡していたと認められる。されば、原告の、仔犬(一)の死亡による、被告に対する不法行為に基く損害賠償の請求は、その 余の点につき判断するまでもなく、失当というべきである。

四 次 に、仔犬(二)の死亡について判断すると、原告は、被告はジュンが仔犬(二)を出産する際その自然出産を助成すべきであったたのに、強引にジュンの膣内か ら引き出した、と主張するが、《証拠略》によれば、被告が、二日、ジュンを診察した時には、ジュンは、一日朝からの陣痛により呼吸速迫して衰弱しており、 被告がジュンの膣部を内診したところ、仔犬(二)は逆児のため後肢が出口に触れて出ることができない状態であった事実を認めることができ、さらに、被告が 強引にジュンの膣内から仔犬(二)を引き出したことを認めるに足る証拠はなく、また、仔犬(二)がまだ生きていて被告において仔犬(二)に対しなんらかの 応急の手当をなすぺき状況にあったと認めるに足る証拠はなく、却って《証拠賂》によれぱ、仔犬(二)は長時間膣に締めつけられたため、被告が引き出した時 には既に死亡していた事実が認められる。されば、原告の、被告に対する、仔犬(二)の死亡による不法行為に基く損害賠償の請求も、その余の点につき判断す るまでもなく失当というべきである。

五 次に、仔犬ら(三)の死亡 について判断すると、原告は、仔犬ら(三)は被告が取り出した時はまだ生きていたと主張するが、原告の右主張事実を認めるに足る証拠はなく、却って、《証 拠賂》によれば、被告がジュンの腹腔内から仔犬ら(三)を取り出した時には、既に仔犬ら(三)はいずれも破水のため死亡していたことが認められる。また、 披告の本件手術における、切開程度および子宮を取り出した後にその一部を切開するという、仔犬ら(三)の取り出しの過程自体になんらかの不手際があったも のと認めるに足る証拠もなく(《証拠判断略》)、却って、《証拠略》によれば、仔犬ら(三)とともに誕生した仔犬一頭が現在なお生存している事実を認める ことができる。されば、原告の、被告に対する、仔犬ら(三)の死亡による不法行為に基づく損害賠償の請求も、失当というべきである。

六  最後に、ジュンの死亡について判断すると、前叙認定のとおり、被告が、二日、朝からの陣痛により呼吸速迫して衰弱していたのであり、また、《証拠略》に よれば、被告が仔犬(二)をジュンの膣内から取り除いて産道を開いてやった後も次の仔犬を分娩せず、陣痛促進剤アトニンを六本も二○分ないし三○分の間隔 をおいて注射したにもかかわらず陣痛微弱で分娩にいたらず、ジュンは次第に衰弱してくるし、胎児も胎動がなかった事実を認めることができ、右認定事実に照 らせば、本件手術は、原告主張の如き不要のものではなかったばかりか、むしろ、必要であったといえるのであ(る)《証拠判断略》。また、右認定事実のもと では、被告がジュンを病院に移動させることなく、そのまま引き続いて原告の肩書居宅内の一室で本件手術をしたからといって、急を要した時のことゆえ、あえ て責められぬ事情にあったものと認められる。次に、原告は被告は消毒しないまま軽便カミソリを使用してジュンの腹部の毛を剃り、そのままの軽便カミソリを 使用してジュンの腹部を切開した、と主張し、《証拠略》中には右主張にそうがごとき部分があるが、必ずしもこれを全面的に措信することができず、《証拠 略》によれば、被告が本件手術をするに際しては、有窓布、ガーぜ、脱脂綿、止血用具、鉗子、縫合器等手術用具を煮沸消毒し、軽便カミソリをアルコールで消 毒した後にジュンの腹部皮膚を切開したことが認められ、他に右認定事実をくつがえすに足る証拠はない。しかし、《証拠略》によれば、アルコール消毒では完 全とはいえず、できれば、完全滅菌したメスをしようすべきであったと認められる。次に、被告に本件手術後ガーゼを完全に腹腔内より取り出したうえ、まず、 支給手術創を縫合し、ついで腹部皮膚手術創を縫合する義務があるにもかかわらず、被告はこれを怠り、ジュンの腹部にガーゼを数枚放置し、子宮壁手術創を縫 合しないまま腹部皮膚手術創を縫合したとの原告主張事実については、被告が子宮壁手術創を縫合しないまま腹部皮膚手術創を縫合したという事実を認めるに足 る証拠はないが、ガーゼの腹腔内遺留の事実自体については被告の認めるところである。また、原告は本件手術後における被告の処置を非難する。なるほど、被 告が四日朝ジュンを診察した際にジュンの腹部手術創から水溶液が流れ出ていたこと、被告が七日朝ジュンを診察した際、ジュンの腹部手術創から腸が露出して いたこと、その際、被告がこれを腹腔内に押し込み、手術創をそのまま三針縫合したことは、いずれも被告の認めるところではあるが、また、《証拠略》によれ ば、被告は、本件手術後、ジュンが非常に衰弱していたのでその夜中に、ジュンに酸素吸入をしたり、犬血清アルブミンの注射をしたりしたこと、四日から七日 までほとんど毎日ジュンを往診し、六日頃、縫合部位から少し汁が出てきたが、そのままでも創口が開く場合もあるので様子をみることにしたこと、ところが、 七日に診察の際、腸が創口からちょっと出かかっていたので、再縫合しなければならなくなったが、再手術するまで、腸がそれ以上でないように応急的に三針縫 い、後刻、再手術することにしたこと、その後、再手術のため、被告が再び原告方に往診に、赴いた時には、原告が不在であったこと、そして、その間に原告が ジュンを移動して動物病院に入院させていたことが認められ、他に右認定を左右するに足る証拠はない。右認定の事実によれば、本件手術後における被告の手当 が、殊に原告主張の如き獣医師としての注意義務を欠いた杜撰なものであると知なければならぬほどのものとはみとめられない。

七 以上認定したところによれば、本件で被告の獣医師としての診療上の注意義務の懈怠の有無が主として問題となるのは、結局、アルコール消毒しただけの軽便カミソリで本件手術を行った点とガーゼの体内遺留の点である。

  《証拠略》によれば、被告は、四月二日本件手術の際、ジュンの子宮を胎児が入ったまま手術創から取りだし、子宮内の液が外にこぼれないように、また、こぼ れても腹腔内に侵入しないようにするため、煮沸消毒したガーゼを手術創の周囲の腹腔内に挿入したことが認められる。そして、《証拠略》によれば、四月八日 動物病院のE獣医師がジュンを再手術して開腹したところ、勝胱の基部背側に鶏卵大異物状塊があって腸管に癒着しており塊を圧すると黄色腹が流出し、検する と、それはガーゼ塊で、腸管管膜に癒着し、癒着を剥離すると、ガーゼ塊の深部は子宮体部の切断部に圧定されていたものの如く残置されでいたこと、そして、 そのガーゼ塊は一五センチメートル角のガーゼ七枚が重ねられたまま塊状に丸められたものであることが判明したことが認められ(もっとも、被告が、本件手術 後、一部のガーゼをジュンの腹腔内に遺留したこと自体は、被告も認めるところてある。)、その後、ジュンが四月一三日腹膜炎ならびに敗血症のため死亡した 事実は当事者間に争いがない。原告は、ジュン死亡の直接原因は腹膜炎と敗血症であるが、右致命傷を発生せしめたのは、被告の不注意に基づく杜撰な手 術であると主張する。なるほど、開腹手術後、体内にガーゼが遺留しているということは、施術者に不手際のない限り、通常あり得べからざることであるから、 ガーゼ遺留については施術者たる被告に過失があり、更に、その結果との因果関係についても、特段の事情の認められぬ限り、一応の推定が許されよう。何とな れば、獣医学関係においても、一般の医学関係の場合と同じく、高度の専門的分野における施術上の過失の有無の認定については、いわゆる過失の一応の推定の 理論が認められてしかるべきだからである。ところで、《証拠略》によれば、四月七日前川獣医師がジュンを診察した時には、血液、体温、脈拍等の検査結果か らみて、すでに相当高度の腹膜炎を併発した敗血症を起こしており、その端緒は本件手術の後に惹起されたものであることは否定できないこと、それは、細菌の 感染によるものであるが、感染の経路としては、(1)一般に難産で、しかも、子宮内にある程度の感染があった場合には、子宮の処理が悪いと腹腔内に感染を 起こす、また、(2)手術の手技、あるいは、手術器具機材の中に細菌をもったまま手術をするとそれによって腹腔内に感染を起こす、との二つの場合が考えら れること、ジュンの場合、一番大きく壊死を起こしていて膿が非常に貯留していたのは子宮断端部であったことが認められる。右認定の事実並びに前認定の通り 急を要したことゆえ、やむを得ないことではなったが、被告が、病院の手術室ではなくて原告の肩書居宅内の手術用の設備のない一室で、しかも完全滅菌とまで は保証し難いアルコール消毒による軽便カミソリを使用して本件手術をしたこと、また、被告が、一応煮沸消毒をしたこてゃいうものの、十五センチメートル角 のガーゼを七枚もジュンの腹腔内の化膿の原発巣と認められる子宮断端部に遺留したことを合わせ考えると、本件手術の際に細菌感染の機会が公然なかったとは とうてい談じがたい。従って、ジュンの腹膜炎並びに敗血症による死の転帰は、本件ガーゼ遺留等、被告の本件手術の際における、施術上の不手際、過失による ものと一応推認する事ができ、右推認をくつがえすに足る事情は、むしろ、施術者たる被告において立証すべきところ、本件口頭弁論にあらわれた全証拠をもっ てしても右認定をくつがえすには足りない。

 してみれば、被告は、すくなくとも、ジュンの死亡に関する限りは、原告に対し、不法行為による損害賠償債務の負担を免れないものといわなければならない。

八  そこで、ジュンの死亡による損害額につき案ずるに、ジュンの取得価格は前認定のとおり金三万円であったが、その死亡当時における客観的価格がいくらで あったかを確定的に認めるに足る証拠はないが、なにがしがの財産的価値を有していたであろうことは十分推認できること、また《証拠略》を総合すれば、原告 には五十才の坂をこえた今日まで実子がないところからジュンを狩猟用の愛犬として飼育していたことが認められることをあわせ考えると、ジュンの死亡によっ て、原告の蒙った損告は、その財産的損告および精神的苦痛に対する慰籍科として合計金五万円とするを祖当とし、被告は、原告に対し、右金五万円およぴこれ に対する本件訴状送達の日の翌日であることの明らかな昭和四一年七月五目以降完済に至るまで民法所定年五分の割合による遅延損害金を支払うベ義務がある。

九  被告は、原告は被告が動物病院に対するジュンの入院料、手術料等一切の債務を弁済することを停止条件として本件不法行為による損害賠償債務を免除した、 と主張するが、《証拠略》をもってしても被告の右主張事実を認めるに足らず、他にこれを認めるに足る証拠はないから、その余の点について、判断するまでも なく、被告の右免除の抗弁は理由がない。

一○ よって、原告の本訴請求は、以上認定の限度で正当として認容し、その余を失当として棄却すべく、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第八九条第九二条本文、仮執行の宣言につき同法第一九六条第一項に徒い、主文のとおり判決する。

         (裁判官 関口文吉)