(平成19年03月22日東京地方裁判所民事第14部・平成17(ワ)20670)→控訴
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地方競馬の競走馬が手術を受けた際に,獣医師が縫合針等を残置するなどしたため,安楽死せざるを得なくなった競走馬の損害賠償事件につき,獣医師の過失を認め,さらに縫合糸の残置と競走馬の死亡に因果関係を認めた事例(平成19年03月09日札幌高裁平成18(ネ)194)[損害賠償等合計約2051万円を認容]
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主文
1 本件控訴を棄却する。
2 附帯控訴に基づき,原判決主文第1項を次のとおり変更する。
(1 ) 控訴人は,被控訴人に対し,2051万3805円及びこれに対する平成13年10月25日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
(2 ) 被控訴人のその余の請求を棄却する。
3 訴訟費用は第1,第2審を通じてこれを12分し,その11を控訴人の負担とし,その1を被控訴人の負担とする。
4 この判決は,第2項(1)及び第3項に限り,仮に執行することができる。
事実
第1当事者の求めた裁判
1 控訴の趣旨
(1 ) 原判決中,控訴人の敗訴部分を取り消す。
(2 ) 上記取消しにかかる部分の被控訴人の請求を棄却する。
(3 ) 訴訟費用は第1,2審とも被控訴人の負担とする。
2 附帯控訴の趣旨
(1 ) 原判決を次のとおり変更する。
(2 ) 控訴人は,被控訴人に対し,2247万5151円及びこれに対する平成13年10月25日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
( 3) 訴訟費用は第1,2審とも控訴人の負担とする。
(4 ) 仮執行宣言
第2事案の概要
1 本件は,北海道市営競馬組合が行う地方競馬(以下「ばんえい競馬」という。) の競争馬(以下「ばん馬」という。)であるK号(以下「本件馬」という。)が,控訴人の運営する静内診療所E(以下「控訴人病院」という。)で喉頭形成術(以下「本件手術」という)を受けた際,控訴人病院の獣医師が本件馬に針等を残置するなどしたため,本件馬を安楽死させざるを得なくなったと主張する本件馬の所有者である被控訴人が,控訴人に対し,債務不履行又は不法行為に基づいて,3518万0801円の損害賠償と不法行為日の後の日であるから平成13年10月25日から支払済みまで民法所定の年5分の割合による遅延損害金の支払を求めた事案である。
原審は,被控訴人の請求のうち,1164万5156円とその遅延損害金の限度で認容したので,控訴人が控訴の趣旨記載の裁判を求めて控訴し,被控訴人が,請求を2247万5151円に減縮した上で,附帯控訴の趣旨記載の裁判を求めて附帯控訴した。
2 前提事実
前提事実は,原判決書「事実及び理由」欄の「第2事案の概要」の「1
前提事実(証拠を掲げない事実は当事者間に争いがない。)」に記載のとおりであるから,これを引用する。
3 争点
( 1) A獣医師に本件手術における手技その他の過失があるか。
( 2) A獣医師の過失と本件馬の死亡との間に因果関係があるか。
( 3) 損害及びその額
4 当事者の主張
(1 ) 争点(1 )(A獣医師に本件手術における手技その他の過失があるか)について
原判決書「事実及び理由」欄の「第2事案の概要」の「2争点及びこれに対する当事者の主張」の「( 1)A獣医師に本件手術における手技その他の過失があるか」に記載のとおりであるから,これを引用する。
(2 ) 争点(2 )(A獣医師の過失と本件馬の死亡との間に因果関係があるか) について
(被控訴人の主張)
本件手術の際,A獣医師が,本件馬の喉頭部腹側左甲状軟骨内に縫合針を残置し,同部位付近に不要な縫合糸を残置するなど,ずさんな手技であったため,手術室内の空気中の細菌や手術台周辺に散在する雑菌類等により,同部位付近に感染症が生じ,左側喉頭部周囲全域(左披裂軟骨,左甲状軟骨及び輪状軟骨部)に及ぶ結合組織の炎症性肥厚(増生)をもたらし,本件馬は安楽死を余儀なくされた。解剖時の写真には,残置された針の末端部分で軟骨から外にはみ出した部分と接していたと思われる組織に暗赤褐色の変色がある。このことは,本件手術において,A獣医師によって残置された針及びその接着した付近一帯に感染症を生じさせたことを裏付ける。さらに,残置された針と,摘出された糸とはつながっていた可能性もあり,その場合,A獣医師に責任があることは明らかである。
本件手術後,本件馬は,I競馬場の診療所に搬送され,抗生物質を投
与され,北海道樺戸郡B町にあるC調教師個人の厩舎(以下「D厩舎」という)に移送され,抗生物質ペニシリンが投与され,表皮の術創にイソジンによる消毒が行われ,その後預けられたEのもとでも,抗生物質が投与され, 表皮の術創の消毒が行われていた。本件馬に対する術後管理には,何の落ち度もないから,A獣医師の過失と本件馬の安楽死との間の因果関係は,切断されない。
(控訴人の主張)
A獣医師は,本件手術において,本件馬の喉頭部腹側左甲状軟骨内に縫合
針を残置したが,その周辺組織は,解剖時においても化膿していないから,針の残置と本件馬の死亡との間に因果関係はない。
また,本件馬の感染機序は,血行感染であり,術中感染ではない。本件馬の体内にあった縫合糸の中には,A獣医師による適式な喉頭形成術に使用された縫合糸,すなわち,本件手術に必須の縫合糸が含まれている。そして,本件馬の感染源となった縫合糸は本件手術に使用された縫合糸であるのか, それ以外に残置されていた縫合糸であるのかは,証拠上明らかではない。本件馬の血行感染による感染源となった縫合糸は,本件手術において適式に使用された縫合糸であることも考えられるが,仮にそうであるとすれば,そもそも血行感染は本件手術とは無関係に生ずるものである以上,A獣医師の行為と本件馬の死亡との間には因果関係はないことになる。
(3) 争点(3 )(損害及びその額)
(被控訴人の主張)
ア積極損害
a 治療関係費用等38万8528円
b 輸送費用26万7750円
イ逸失利益
a 休業損害178万6120円
本件馬は,前回手術から3か月後にレースに復帰し,優勝している。
本件手術が失敗しなければ,本件馬は,平成13年7月からレースに復帰し,同年10月までの4か月間を毎月2回合計8回のレースに出場できたと考えるのが合理的である。本件馬の生涯における1レース当たりの獲得賞金の平均は22万3265円であり,したがって,休業損害は, 少なくとも,8回のレース分に相当する178万6120円となる。
(計算式)223,265 × 8 = 1,786,120
b 死亡逸失利益980万5753円
本件馬は,その戦績が群を抜いていたのであるから,特別の状況でも生じない限り定年である10歳まで出走させ続けたことは間違いない。ただし,定年まで出走させた場合に引退後の種牡馬としての価値は低下する。ところが,早めに引退させた場合には種牡馬としての価値は高まる。引退年齢期待値は,8.3歳とみるべきであり,本件馬を8歳で引退させたとした場合,本件馬の生涯における1レース当たりの獲得賞金の平均は22万3265円であるから,1年で20回出走し,年間経費170万円を差し引き,4年間(8歳−4歳)に対応するライプニッツ現価係数3.5460を用いて中間利息を控除すると,本件馬の死亡逸失利益は,980万5753円となる。
(計算式)(223,265 × 20 −1,700,000)× 3.5460 ≒ 9,805,753
c 種牡馬の価値822万7000円
本件馬の種牡馬としての価格は,10歳で引退するとしても1000万円を下るものではない。8歳で引退するとした場合,控え目に見積もっても1000万円を下る評価は考え難い。4年間に対応するライプニッツ現価係数0.82270を用いて中間利息を控除すると,本件馬の種牡馬としての価値は,822万7000円となる。
(計算式)
10,000,000 × 0.82270 = 8,227,000
ウ弁護士費用200万円
控訴人が被控訴人に対して賠償すべき損害は2047万5151円となること,社会的事象としては珍しい馬をめぐる医療訴訟であって,弁護士による訴訟追行が不可欠であること,被控訴人代理人は,A市又は東京から出廷するなど苦労が大きいことにかんがみれば,弁護士費用としては200万円が相当である。
エ控訴人の主張に対する反論
控訴人は,ばんえい競馬が廃止されることが事実上決定したから,ばん馬の価格は肉用馬としての価値しかないと主張するが,加害行為時に存在していない事情を損害賠償責任を議論する際に考慮することはできないというべきである。
(控訴人の主張)
ア消極損害について
本件馬の消極損害としては,本件馬が出走した場合に獲得できたであろう賞金額を前提とする逸失利益を考慮する必要はなく,動産である馬の交換価値としての種牡馬としての価値のみをもって損害とすべきであり,それに加えて,逸失利益の算定について,将来の賞金獲得可能性を加味することは過剰なフィクションを裁判に持ち込むこととなるから,賞金獲得可能性を考慮して逸失利益を算定すべきではない。
仮に,逸失利益を考慮するとしても,ばんえい競馬において10歳まで現役を継続する馬は,5歳以上の馬の中でも10%以下であり,ばんえい競馬に登録されているばん馬の中で,5歳以上の馬の平均年齢は,6.78歳であるから,本件馬が10歳まで出走し続ける蓋然性は極めて低い。
本件馬は,喘鳴症で2回の喉頭形成術を受けていることに照らし,本件馬がばんえい競馬に出走し,賞金を得ることができるのは,せいぜい6歳程度までであると考えるべきである。本件手術前と同程度の賞金を獲得できる蓋然性も低い。引退時の価格も低廉になるはずである。また,本件馬は, ばんえい競馬開催中は月15万円,それ以外の期間は月10万円の経費を要しており,逸失利益の算定に当たり,控除されるべきである。
さらに,ばんえい競馬は,既に平成10年ころから赤字が常態化しており,規模を縮小するか廃止するかを検討されていたところ,平成18年11月25日の段階で,O市及びI市の開催を模索していたが,I市が撤退することを表明したため,帯広市長は既に単独開催を行わない意向を示していたことから,その廃止が事実上決定した。ばんえい競馬が廃止となれば,ばん馬は肉用馬として転換せざるを得ないが,その価格は,ばん馬の半分程度である。また,本件馬のばん馬種牡馬としての価値は失われたというべきである。
イ過失相殺
被控訴人は,本件馬の管理をD厩舎ないしEにゆだねていたところ,D厩舎ないしEは,本件馬に対し,本件手術を行ったA獣医師の診察・加療を受けさせず,大きな病院で受診させることもなかった。獣医師による診察も数回である。このように,本件馬は,その症状に応じた治療の機会を奪われている。
本件手術においてA獣医師に過失があったとしても,本件馬が安楽死を余儀なくされたことには,被控訴人側の過失に負うところが大であり,その過失割合は,8割を下らない。損害の公平な負担の観点からは,過失相殺ないし過失相殺の類推適用をするべきである。
理由
1 認定事実
前提事実に加え,証拠(甲2,4ないし8,23の1 ないし7,24,25, 27,28,31,32ないし47,乙1の1,2,2ないし5,乙A5の1 ないし4,6の1 ないし9,9,12,13,乙C16ないし49,調査嘱託の結果,証人A,証人F,証人G,証人C及び被控訴人本人。ただし,乙A12及び証人Aの証言のうち,以下の認定事実に反する部分を除く)によれば,次の事実が認められ,この認定事実に反する証拠は採用しない。なお,事実認定に供した主な証拠は再掲する。
(1 ) 当事者
ア被控訴人は,平成11年4月10日ころ,当時2歳の牡馬であった本件馬を手数料50万円を含めて合計500万円で購入した(前提事実)。
イ控訴人は,控訴人病院を運営する農業協同組合である。A獣医師は,平成13年4月当時,控訴人の診療部長であり,控訴人病院で診察,手術等を行っていた。なお,A獣医師は,我が国で初めて,馬の喘鳴症に対して喉頭形成術をした獣医師である(前提事実)。
(2 ) 本件手術に至る経過
ア本件馬は,平成11年5月3日から平成12年1月30日までの間,24回のレースに出走して6回優勝し,同年5月29日のレースでも優勝し,同年6月11日のレースでは9位であった(前提事実)。
イ本件馬は,平成11年6月16日,畜大病院において,喘鳴症(喉頭片麻痺)と診断された。喘鳴症とは,喉鳴りとも言われ,馬の喉頭口が狭まり,深い呼吸をする際に特異な喉頭狭窄音(喘鳴音)を発する疾病である。これによって呼吸が十分できない場合には,競争能力に影響が生じる。その主な原因は,喉頭部にある披裂軟骨の麻痺である。多くの症例は,左側の披裂軟骨だけが麻痺し,喉頭片麻痺といわれる。披裂軟骨は,息を吸う場合,外転し,気道を開け,食道を閉じる機能を果たすので,左側の披裂軟骨だけが神経麻痺を起こして外転しないと,息を吸う場合,気道が狭くなり,喘鳴音が発生する。喉頭片麻痺の原因は,未解明である。喘鳴症は,それ自体として, 排膿や瘻管を形成する疾病ではない(前提事実)。
本件馬は,同日,畜大病院において,前回手術を受けた。喉頭形成術は,小角突起という筋肉に包まれている披裂軟骨と輪状軟骨の筋突起との間にプロテーゼを装着する手術であり,具体的には,披裂軟骨と輪状軟骨を直接,非吸収性の糸で結束する手術である(前提事実)。
ウ本件馬は,平成11年9月16日から平成13年2月18日までの間,14回のレースに出走し,5回優勝した(前提事実)。
本件馬は,平成13年4月ころ,喘鳴症が再発した(前提事実)。
(3 ) 本件手術
ア被控訴人と控訴人は,平成13年4月12日,本件馬に喉頭形成術を行うことを主たる内容とする本件診療契約を締結した(前提事実)。
イA獣医師は,本件馬に抗生物質(マイスリン)を投与するなど,術前措置を施した上,手術を開始した。本件手術は,平成13年4月12日午前10時48分,本件馬に鎮静剤が投与され,全身麻酔のもと,同日午前11時40分ころ,表皮の切開に始まり,同日午後1時20分ころ終了した。本件馬が麻酔から覚醒したのは,同日午後1時40分ころであった(乙2,乙A12) 。
本件手術の具体的な内容は,次のとおりであった(乙A12)。
(ア)本件馬に麻酔をかけた後,台車の上に本件馬の右側を下にして乗せて寝かせ,本件馬の首の左側面を剃毛し,その部分を消毒した。その後,本件馬を手術台に移し,首の下に台を置いた。
(イ)まず,首の左側面の舌顔面静脈の上の部分を切開し,皮下組織及び唾液腺を鈍性に剥離した。止血を行いながら,皮下組織を剥離すると,輪状咽頭筋と甲状咽頭筋が接しているところに達することから,輪状咽頭筋と甲状咽頭筋の間を鈍性に剥離し,披裂軟骨の筋突起を露出した。その後,輪状軟骨をタオル鉗子でつかんで引き出し,喉頭形成術を施した。
(ウ)喉頭形成術を実施する際,本件馬は,出血が多量に認められたため,止血に時間がかかるなどし,一般的な手術の所要時間よりも時間がかかった。
(エ)喉頭形成術を実施する際に使用された針は,エチボンド(乙A6の2) であった。エチボンドは,湾曲した金属製の針の後端に非吸収性の糸(ポリエステル製)が接着されている形状をしており,軟骨に縫合糸を通した,ところで金属製の針とそれに続く縫合糸を切断して使用するものである。
(オ)その後,輪状咽頭筋と甲状咽頭筋の筋膜をバイクリル(乙A6の6)で縫合し,皮下組織を縫合した。バイクリルは,湾曲した金属製の針の後端に吸収性の糸が接着されている形状をしており,縫合作業を終えると,金属製の針とそれに続く縫合糸を切断して使用するものである。そして,皮膚をナイロン糸(非吸収性。乙A6の9)を用いて縫合し,術創にガーゼを当てるなどして手術が終了した。
(カ)本件で使用された縫合針及び糸は,すべて滅菌処理を施された新品が使用された。
ウ A獣医師は,本件手術終了後,被控訴人に対し,術後措置について,特段の指示を行わず,抗生物質を渡すようなこともなかった(乙A12)。
なお,A獣医師は,本件馬の喉頭部腹側左甲状軟骨内に披裂軟骨と輪状軟骨の筋突起をプロテーゼ(人工装具)で結束する際に用いられる縫合針を残置した(前提事実)。
(4 ) 本件馬の死亡
アH獣医師は,I競馬場の「ばんえい競馬馬主協会診療所」において,平成13年4月13日午前零時41分,本件馬に対し,抗生物質を投与した。
その後,本件馬は,D厩舎に移され,本件手術の翌日か翌々日ころ,同所で,H獣医師の診察を受けた。数日間,D厩舎の厩務員らは,本件馬に対し, H獣医師から処方された抗生物質などを投与するなどした本件馬の術創は, 腫れている状態であったが,排膿のある状況ではなかった。
イ本件馬は,平成13年4月の下旬又は同年5月の上旬ころ,北海道空知郡I町のEのもとに預けられた。Eは,本件馬の術創部分の腫れがなくならないので,G獣医師に本件馬を診察してもらった。G獣医師は,同年5月から7月ころ,本件馬の術創部に膿がたまっている状況であったことから,同部位を切開して排膿し,術創部の消毒等をすることをEに指示した。(甲27)
ウ本件馬は,平成13年8月25日ころ,C調教師がI競馬場から与えられている厩舎に移された。H獣医師は,同月25日及び27日,本件馬に対し,I競馬場の「ばんえい競馬馬主協会診療所」において,抗生物質を投与した。同月31日以降,本件馬の術創の部位には膿瘍,排膿が継続的に認められたことから,本件馬には「ばんえい競馬馬主協会診療所」において,膿瘍を排出する外科処置等が施された。
エ本件馬は,平成13年9月4日,畜大病院において,F獣医師の診察を受けた。本件馬の栄養状態は良好であったが,喉頭部の内視鏡検査(口腔から内視鏡にて喉頭部を観察する検査)を行った結果,喉頭片麻痺の症状は最重度(グレード4)であり,披裂軟骨の変形,喉頭部の腫脹が認められた。当該腫脹は,膿瘍形成が原因として疑われた。また,本件馬の本件手術による術創から排膿があった。そこで,F獣医師は,本件馬の喉の部分に形成された当該排膿部に続く瘻管(組織内に形成される管状の膿の排出路)内に鉗子を挿入して探査するなどしたところ,約20㎝の縫合糸が摘出された。この縫合糸は,本件手術において喉頭形成術のプロテーゼとして利用された非吸収性の糸(エチボンド)と同一種類のものであった。F獣医師は,瘻管内に挿入した鉗子で掴むことができた部分は,本件瘻管の中に遊離した状態(瘻管内の膿汁が排出され,空間ができた部分に存在している状態)であったことから,これを鉗子で引っ張ってはさみで切断し,摘出した。当該縫合糸が存在していた場所は,本件手術が施された部分の付近に形成された瘻管内であった(甲23の1,乙A13,調査嘱託の結果)。
【証拠判断】
A獣医師は,このとき摘出された糸は,皮下組織等を縫合した吸収性の縫合糸(バイクリル)だと思う旨証言し,H獣医師の陳述聴取書(甲24)においても,それに沿う記載がある。しかし,実際に当該糸の摘出を行ったF獣医師は,調査嘱託の回答及び証言において,一貫して,喉頭形成術のプロテーゼとして利用された非吸収性の糸(エチボンド)であったと明確に述べる。実物を見ていないA獣医師及びH獣医師の推測をもって,これを覆すことはできない。
オ本件馬は,平成13年9月5日以降,I競馬場等の「ばんえい競馬馬主協会診療所」において療養することとなったが,本件手術の術創部の膿瘍が継続する状態となった。本件馬は,同年10月4日,本件馬は,喘鳴音が重度となり,前日の朝からは,呼吸困難,呼吸時の雑音が著しくなったため,畜大病院において,F獣医師の診察を受けた。本件馬は,栄養状態は良好であったが,その呼吸において狭窄音が発する状態であり,内視鏡検査において,喉頭片麻痺が最重度(グレード4),左側の披裂軟骨が変形し,右側に変位する状態であって気道が著しく狭窄している状態であった。本件馬をX線撮影にて検査したところ,披裂軟骨の筋突起部に縫合針様の異物が認められた。また,本件馬の喉の部分(本件手術の術創部付近)には,瘻管が形成されていた。この瘻管に造影剤を注入し,X線撮影をしたところ,本件馬には,気管の背中側及び食道部に広汎な瘻管が形成されていた。そこで,F獣医師は,本件馬に全身麻酔をかけ,瘻管など化膿している組織を摘出し,併せて,瘻管内から約8㎝の縫合糸を摘出した。この縫合糸もまた,本件手術において喉頭形成術のプロテーゼとして利用された非吸収性の縫合糸(エチボンド)と同一種類のものであった。これが存在していた場所は,本件手術が施された部分の付近に形成された瘻管内であった。その後,本件馬は,麻酔から覚醒したものの, 呼吸困難が重度であったため,F獣医師は,本件馬の気管を切開し,気道管を挿入して気道を確保する措置をとった(甲23の。1,4,証人F)
カ本件馬は,平成13年10月6日,入院していた畜大病院を退院し,排膿が治るまで気道管を装着したままとし,被控訴人において経過観察することとなり,その後,C調教師がA競馬場から与えられている厩舎に移され,同月14日ころまで,同競馬場内の「ばんえい競馬馬主協会診療所」において診察・治療を受けるなどしていた。
被控訴人は,同月23日,本件馬の呼吸時に発生する狭窄音の改善が認められず,更なる外科措置を含めた予後を判定するために,本件馬を畜大病院に受診させた。本件馬に対し,内視鏡による検査が行われた結果,症状として最重度(グレード4)の喘鳴症(喉頭片麻痺)であり,左側喉頭部周囲全域(左披裂軟骨,左甲状軟骨及び輪状軟骨部)に及ぶ結合組織の肥厚(増生) が原因で,呼吸困難を解消させるための外科措置が適用できない披裂軟骨小角突起の変形による気道閉塞であると診断された。上記結合組織の肥厚(増生)は,当該部位に炎症が発生していることが原因で生じたものであった。
キ 本件馬は,呼吸困難症状が著しいため,平成1 3年10月23日,安楽死の処置がされた。本件馬は,死亡時4歳であった(前提事実)。
(5) 解剖
アF獣医師は,平成13年10月24日,帯広畜産大学で本件馬を解剖した。
本件馬には,左側喉頭部周囲全域(左披裂軟骨,左甲状軟骨及び輪状軟骨部) に結合性組織が増生しており,左披裂軟骨の右方への変位及び声門狭窄が生じ,左甲状軟骨内に48㎜の縫合針(エチボンドの針。以下「本件針」という。)が一本,その全長をすべて軟骨内に埋没した状態で突き刺さっていた。本件針は,左甲状軟骨から容易に抜去することができず,F獣医師は,左甲状軟骨を骨ノミで割り,取り出した。左甲状軟骨の本件針に接触する組織全面にわたって,組織の壊死や化膿があるわけではなく,本件針に腐食はなかった。本件針は,折れたものではなく,針全体が摘出された。解剖時,本件針に糸はついていなかった。
イこのとき,縫合糸が2㎝程度摘出された。この縫合糸もまた,本件手術において喉頭形成術のプロテーゼとして利用された非吸収性の糸(エチボンド) と同一種類のものであった。
(6 ) 感染症
ア感染症には,大きく分けて,ある部位に菌が付着してそこを感染源として症状が悪化するものと,ある部位で発生した菌が血液を介して菌が体に回り感染症が広がるものの2種類に分かれる。前者は,怪我や手術によってなることが多く,術中感染はこれに含まれる。後者は,血行感染とよばれ,敗血症などの病名が付される場合が多い(甲32)。
イ一般的に,動物を手術する際に,菌の付着可能性を零にすることはできない動物の体毛や皮膚には雑菌が付着していることはむしろ当たり前であり, 切開部周辺などを滅菌消毒をしたり,クリーンルームという特別な部屋で手術をしたりすることがあるものの,手術部位に菌が付着するのを完全に防ぐことはできない。したがって,獣医師としては,手術室を清潔に保つほか,可能な限り手術時間を短くし,縫合糸などの異物を可能な限り少なくする努力をする。
また,動物は,自ら菌を倒す免疫力があるために,免疫が有効に機能しないときに初めて感染症になる。もともと健康な動物であれば,自らの免疫力で十分に菌を倒すことができるのが一般的である。しかし,異物がある場合は,免疫力がうまく働かないことがあり,例えば,皮膚を切開し,菌が付着したとしても,免疫によって治癒するのに,そこにスポンジ等の異物があれば,いつまでもじゅくじゅくしていて完治しない。異物がある場合には,炎症が治らず,瘻管が形成されるものである。
瘻管とは,慢性の化膿性の疾患であり,化膿が生じてから瘻管が形成されるまでには,相当長い時間が必要である(甲25,32ないし34,乙A13,証人F)。
ウ血行感染は,体内のどこかにある感染部位から菌が血液循環に乗って,体中に回り,その結果,もともと菌が生じた感染部位とは別の場所で菌が繁殖し,新たな感染症を引き起こすという感染態様を示すものである。血行感染は,このように,菌が血を介して全身に回る感染態様であり,一般には,菌が免疫により死滅させられることなく,血液循環に乗り体内を自由に巡り歩く状態を敗血症という。血行感染の場合,最終的には,敗血症から多臓器不全などの重篤な症状を引き起こす可能性がある(甲32ないし34)。
(7) 費用
ア被控訴人は,平成1 3年5月28日,控訴人に対し,本件手術の費用として11万2988円を,同年10月6日,畜大病院に対し,診療料等として11万4760円を,同月15日,社団法人ばんえい競馬馬主協会に対し,診療費として合計14万2030円を,同年11月13日,遠軽地区農業共済組合に対し,馬治療代として1万8750円をそれぞれ支払った(甲4ないし6,8,乙3,被控訴人本人)。
イ被控訴人は,平成13年10月6日,畜大病院から本件馬を退院させてから旭川の厩舎に移動させ,その後,北海道常呂郡J町のKのもとに本件馬を預け,同月23日,診察のため,同人のところから畜大病院まで移動させた。被控訴人は,同年12月3日,Kに対し,これらの輸送費用として26万7750円を支払った(甲7,被控訴人本人)。
(8 ) ばんえい競馬
アばんえい競馬は,A市,I市,K市及びO市の4市共同開催をしていたところ,平成17年1月段階で,永年の累積赤字を解消するために再建計画が検討されていたが,なお売上げが減少する等赤字解消の見通しが
つかないことから,A市とK市が運営からの撤退を表明した。その後,I市も撤退を決めたことから,北海道市営競馬組合主催のばんえい競馬事業は,平成18年度をもって終了することとなった(乙C16ないし45,46の1,2,47ないし49)。
イしかし,O市は,SB関連企業の支援を受けて,平成19年度以降,単独でばんえい競馬を開催することとなった(甲41ないし47)。
2 争点( 1)について
原判決書「事実及び理由」欄の「第3当裁判所の判断の1 争点( 1)」「1 (A 獣医師に本件手術における手技その他の過失があるか)について」の( 2)に記載のとおりであるから,これを引用する。
3 争点(2 )について
(1 ) 被控訴人は,本件手術の際,A獣医師が本件馬の喉頭部腹側左甲状軟骨内に縫合針を残置したことから同部位付近に感染症が生じて,本件馬が安楽死を余儀なくされたと主張する。
しかし,前認定のとおり,平成13年10月24日の解剖の際,本件針に接触する左甲状軟骨の組織全面には,組織の壊死や化膿があったわけではなく,本件針に腐食もなかった。また,本件針に接触したと思われる部分に暗赤褐色の変色があるようにも見える(甲3添付写真,甲23の7)が,F獣医師(乙A1の3,乙A5の1,乙A13,証人F)及びH獣医師(甲24)は,いずれも,本件針それ自体が,結合組織の肥厚(増生)をもたらす化膿性の炎症を引き起こしたとは認められないとの見解を示している。
本件針は,左甲状軟骨内に容易に抜去することができないほど,埋没し深く突き刺さっていたのであり,体内に手術用の針が残置されていても,繁殖牝馬として生きている馬の実例があること(乙10,証人A)に照らすと,本件馬の左甲状軟骨内に埋没した本件針が異物としてその周辺組織に作用し,それが上記結合組織の肥厚(増生)をもたらすような炎症を引き起こしたものと認めることは困難である。
そうすると,本件針の残置のみをもって,本件馬を死亡に至らしめた左側喉頭部周囲全域(左披裂軟骨,左甲状軟骨及び輪状軟骨部)に及ぶ結合組織の肥厚(増生)の原因と認めることはできない。
(2 ) 被控訴人は,本件手術の際,A獣医師が本件馬の喉頭部付近に縫合糸を残置したことから,同部位付近に感染症が生じて,本件馬が安楽死を余儀なくされたと主張するので,以下検討する。認定事実によれば,本件馬は,呼吸困難症状が著しいため,安楽死させられたものであり,呼吸困難の原因は,披裂軟骨小角突起の変形による気道閉塞によるものである。そして,披裂軟骨小角突起の変形は,本件馬の左側喉頭部周辺全域(左披裂軟骨,左甲状軟骨及び輪状軟骨部)に生じた結合組織の肥厚(増生)が原因であり,また,結合組織の肥厚(増生)は,当該部位に炎症が発生したことが原因である。
このように,本件馬の左側喉頭部周辺全域に炎症が発生しているが,これは感染症に罹患したためであると推認される。このような感染症は,前認定のとおり,術中感染と血行感染に大別できる。前者は,手術中,手術部位に菌が付着することが原因である。しかし,菌の付着があっても,動物が本来有している免疫によって感染を防ぐことができる場合もあるが,手術部位に異物が混入した場合には,その免疫力が低下し,結果的に感染症に罹患し,いつまでも異物が排除されないと,組織内に形成される管状の膿の排出路である瘻管形成の原因となる。そして,瘻管とは,前認定のとおり,慢性の化膿性の疾患であり, 化膿が生じてから瘻管が形成されるまでには,相当長い時間がかかる。
ところで,前認定によれば,F獣医師が平成13年9月4日及び同年10月4日の2回にわたって本件馬から摘出した縫合糸(エチボンド)は,本件馬の喉の部分に形成された当該排膿部に続く瘻管内にあったのであるから,これがいわゆる異物として本件馬の免疫力を低下させた原因であると推認することができる。
そうすると,本件手術が通常に比べて長時間を要したため,手術部位が雑菌にさらされる時間も長くなり,このため,手術部位に通常よりも多くの雑菌が付着し,これに加え,A獣医師が残置した本件糸が免疫力の低下をまねき,このため,炎症が発生し,かつ,瘻管が形成され,ひいては,本件馬の左側喉頭部周辺全域に結合組織の肥厚(増生)を生じ,本件馬は,呼吸困難に陥ったということができる。したがって,本件糸の残置と本件馬の死亡との間には因果関係があるというべきである。
これに対し,控訴人は,本件馬の感染機序は,血行感染であり,術中感染ではないと主張する。しかし,血行感染とは,前認定のとおり,体内の感染部位から菌が血液循環に乗って,体中を回り,その結果もともと菌が生じた感染部位とは別の場所で菌が繁殖して,新たな感染症を引き起こすものであり,したがって,血行感染の場合には,最終的には,敗血症から多臓器不全などの重篤な症状を引き起こす可能性がある。しかし,本件馬には,呼吸器以外に特に重篤な症状が出ていたことを認めるに足りる証拠はないから,本件馬の炎症は,血行感染によるものとは認められない。
(3 ) 控訴人は,A獣医師が,本件手術当時,控訴人病院の診療部長であるから,A獣医師の過失(A獣医師が,本件手術の際,本件糸を本件馬の体内に残置したこと)と相当因果関係にある損害について,不法行為(使用者責任)に基づく賠償責任を負う。
4 争点( 3)について
(1 ) 積極損害
ア治療関係費用等38万8528円
被控訴人は,前認定のとおり,本件馬の治療費等として,合計38万8528円を支出したことが認められる。
イ輸送費用26万7750円
証拠(甲7,被控訴人本人)及び弁論の全趣旨によれば,被控訴人は,平成13年10月6日,畜大病院から本件馬を退院させてから旭川の厩舎に移動させ,その後,北海道常呂郡J町のKのもとに本件馬を預け,同月23日, 診察のため,同人のところから畜大病院まで移動させ,これらの輸送費用として合計26万7750円を支出したことが認められる。
A獣医師の過失によって,本件馬の容体が悪化しなければ,こうした支出を要しなかったことが認められるから,輸送費用は,相当因果関係にある損害と言える。
(2 ) 消極損害
ア控訴人は,本件馬の消極損害は,本件馬の交換価値により算出すべきであり,将来の賞金獲得可能性を加味すべきではないと主張する。確かに,動産の価値は,その交換価値により把握すべきであることは,控訴人の主張のとおりである。そして,本件馬は,ばん馬であり,ばんえい競馬に出走し,賞金を稼いでおり,しかも,引退後は,種牡馬としていわゆる種付料を獲得できるのであるから,本来は,そのことを含めての交換価値によるべきものである。しかし,賞金獲得額や種付料を生む価値のある本件馬の現在価値の算定は,はなはだ困難であり,例えば,その期間は限定されているものの,賞金獲得額や種付料を利息と考えると,その元本である本件馬の価値は莫大なものとなる可能性があり,実務的な損害賠償額の算定にはなじまない。したがって,このような場合には,被控訴人が主張するように,ばん馬としての賞金獲得可能性と引退後の馬の交換価値に分離して計算することも妥当な考え方と言うべきである。
イ休業損害178万6120円証拠(甲17の1 ないし24,甲18の1 ないし16,証人C)及び弁論の全趣旨によれば,ばん馬の出走は月2回が標準的であり,本件手術前の本件馬も同様であったこと,ばんえい競馬は,平成17年度までは,毎年5月から翌年の2月まで10か月間開催されたこと,本件馬が得た優勝賞金と出走手当から進上金等を除いた収入額は,1レース当たり平均22万3265円であったことが認められる。
本件手術前の生涯平均の収入額を前提として,本件手術後の3か月後であ
る平成13年7月から同年10月までの間,月2回合計8レースに出走したとすれば,その間の収入額は178万6120円(1レースあたり22万3265円×8回)となる。
(計算式)223,265 × 8 = 1,786,120
ウ死亡逸失利益784万4382円
(ア)本件手術前の本件馬は,前認定のとおり,24戦して6勝,2戦して1勝,14戦して5勝という通算勝率が3割(通算40戦12勝)という極めて高い勝率のばん馬であるから,平均引退時期に馬主である被控訴人が本件馬を引退させるとは想定し難い。しかし,種牡馬として価値を維持するために平均引退時期に本件馬を引退させることも馬主の選択としてはあり得るところ(甲35ないし38)であり,損害の控え目な認定という観点からも本件馬が平均引退時期に引退したと仮定して死亡逸失利益を算定することとする。
証拠(甲39,乙C3ないし5,被控訴人本人)及び弁論の全趣旨によれば,平成17年度のばん馬は,4歳馬が99頭,5歳馬が81頭,6歳馬が78頭,7歳馬が45頭,8歳馬が38頭,9歳馬が34頭,10歳馬が23頭であること,平成18年度のばん馬は,5歳馬が73頭,6歳馬が59頭,7歳馬が64頭,8歳馬が26頭,9歳馬が34頭,10歳馬が21頭であることが認められる。1年後の馬の減少数が引退した馬の数であるといえるから,当時のばんえい競馬における4歳馬の平均引退時期は,次のとおり,8.2歳(小数点以下四捨五入)である。(計算式)
(4× 26 + 5 × 22 + 6 × 14 + 7 × 19 + 8 × 4 + 9 × 13 + 10 × 23)÷ 99 ≒ 8.18
(イ)本件馬は,死亡時4歳であったから,逸失利益の算出においては,8歳まで4年間の得べかりし利益を検討する。
確かに,本件馬は,前認定のとおり,本件手術前には通算勝率が3割という極めて高い成績を残していたが,過去に高勝率を残した馬がその後も同率の勝率を維持できる可能性があるとまでは断定できない。また,加齢によって走力が低下することも考えられる。さらに,以上のような事情を考慮し,損害の控え目な認定という観点から,2割を減じた金額をもって損害と認定するのが相当である。
本件馬は,前認定のとおり,本件手術前に,10か月間,各月2回出走し,1レース当たり平均22万3265円の収入額を得ていた。そして,年間の経費が170万円(15万円の10か月分及び10万円の2か月分の合計額)かかるから,これを控除すると,年間利益は276万5300円となる。4年間に対応するライプニッツ係数(年金現価表)3.5459を用いて中間利息を控除すると,8歳になるまでの逸失利益は,次のとおり,784万4382円(小数点以下四捨五入)となる。
したがって,A獣医師の過失がなかった場合,本件馬によって得られる
死亡までの逸失利益は,784万4382円である。
(計算式)
(223,265 × 20 −1,700,000)× 3.5459 ×( 1 −0.2)≒ 7,844,382
(ウ)控訴人は,ばんえい競馬は,平成18年11月25日の段階で,その廃止が事実上決定したから,将来の賞金獲得の可能性を死亡逸失利益を算定する際に考慮すべきではないと主張する。
しかし,本件手術時に,ばんえい競馬が廃止される具体的事由が存在し, 近い将来に廃止されることが客観的に予測されていたという特段の事情がない限り,ばんえい競馬が廃止されるかもしれないという事情を本件馬の死亡逸失利益を算定する際に考慮すべきものではないと解するのが相当である。本件全証拠によっても,本件手術時である平成13年4月当時,ばんえい競馬が近い将来に廃止されるという具体的事由も客観的に予測されていたという特段の事情も認められない。控訴人の主張は採用できない。
なお,念のため,控訴人の主張について判断するに,確かに,北海道市営競馬組合主催のばんえい競馬は,前認定のとおり,平成18年度をもって終了することとなったが,平成19年度以降,O市が,SB関連企業の支援を受けて開催することとなったので,ばんえい競馬自体は存続することになる。控訴人の主張は,いずれにしても採用できない。
エ種牡馬としての価値822万7025円
本件馬は,前認定のとおり,被控訴人が手数料を含め500万円で購入した馬であり,本件手術前の通算勝率は3割であった。また,証拠(甲14,15)によれば,本件馬を知る調教師及び騎手が手術前の交換価値を1500ないし2000万円と予想していたことが認められる。しかし,前説示のとおり,過去に高勝率を残した馬がその後も同率の勝率を維持できる可能性があるとまでは断定できず,加齢によって走力が低下することも考えられること,損害の控え目な認定という観点から,本件馬は,8歳馬として引退する際,少なくとも,1000万円の売却価値があったと認めるのが相当である。
そして,4年間のライプニッツ係数(現価表)0.82270247を用いて中間利息を控除すると,死亡当時の本件馬の価値は822万7025円(小数点以下四捨五入)となる。
(計算式)
10,000,000 × 0.82270247 ≒ 8,227,025
なお,証拠(甲12,16の1,2)によれば,喘鳴症を発症し,手術を受けたことがあるばん馬が,引退後,450万円程度で売られたことがある事実が認められるが,このばん馬の成績等が不明であり,本件馬の種牡馬としての価値を算定する際に参考にすることはできない。
控訴人は,ばんえい競馬は廃止することが事実上決定したとして,種牡馬としての価値はなく,肉用馬としての価値しかないと主張する。しかし,本件手術時に,ばんえい競馬が廃止される具体的事由が存在し,近い将来に廃止されることが客観的に予測されていたという特段の事情があるという立証のない本件では,控訴人の主張を採用することはできない。
( ) 過失相殺3
以上の合計は,1851万3805円となる。
(計算式)
388,528 + 267,750 + 1,786,120 + 7,844,382 + 8,227,025 = 18,513,805
ところで,前認定のとおり,本件馬の術後管理において,通常の水準以下であったことをうかがわせる事情は認められない。そもそも,損害賠償の額を定めるについて斟酌される「被害者側の過失」とは,被害者本人と身分上ないしは生活関係上一体をなすとみられるような関係にある者の過失をいうものと解するのが相当であるところ,本件において,仮に,本件手術後,本件馬の診療に関わった獣医師らに何らかの過誤があったとしても,これをもって,被害者側の過失に当たるとはいえない。したがって,本件において,過失相殺をすべきではない。
(4) 弁護士費用200万0000円
本件事案が馬の医療過誤訴訟であるという特殊性に加え,被控訴人代理人らの法律事務所の所在地が旭川市内及び東京都内にあるのに対し,第一審が釧路地方裁判所北見支部,控訴審が札幌高等裁判所であること,認容額その他本件に表れた一切の事情を考慮すると,被控訴人が控訴人に対して請求し得る弁護士費用としての損害は,200万円が相当である。
5 以上のとおり,被控訴人の請求は2051万3805円及びこれに対する不法行為の後である平成13年10月25日から支払済みまで年5分の割合による遅延損害金の支払を求める限度で認容すべきところ,これと結論を異にする原判決は変更する必要がある。したがって,本件控訴は理由がなく,附帯控訴は一部理由がある。
よって,本件控訴を棄却し,附帯控訴に基づいて原判決を変更することとして, 主文のとおり判決する。
札幌高等裁判所第2民事部
裁判長裁判官 末永進
裁判官 千葉和則
裁判官 杉浦徳宏
飼い主の有するペットに対する治療法選択に関する自己決定権が侵害されたと認定して、治療費、慰謝料及び弁護士費用の合計42万円の損害賠償請求を認容した事例[死亡による精神的苦痛についての慰謝料=控訴人夫婦各15万円を認容](平成17・5・30名古屋高裁金沢支部)平成15(ネ)330
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主 文
1 原判決中,控訴人らの被控訴人aに対する請求に関する部分を次のとおり変更する。
(1) 被控訴人aは,控訴人らに対し,各21万円及びこれに対する平成15年1月24日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
(2) 控訴人らの被控訴人aに対するその余の請求を棄却する。
2 控訴人らの被控訴人bに対する控訴(当審における請求拡張部分を含む。)を棄却する。
3 訴訟費用は,控訴人らと被控訴人aとの間においては,第1,2審を通じて,控訴人らに生じた費用の20分の1を被控訴人aの負担とし,その余は各自の負担とし,控訴人らと被控訴人bとの間においては,控訴人らに生じた控訴費用を2分し,その1を控訴人らの負担とし,その余を各自の負担とする。
4 この判決は,第1項(1)に限り,仮に執行することができる。
事実及び理由
第1 当事者の求めた裁判
1 控訴人ら
(1) 原判決を取り消す。
(2) 被控訴人らは,控訴人らに対し,連帯して各175万5452円及びこれに対する平成15年1月24日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
(3) 訴訟費用は,第1,2審とも,被控訴人らの負担とする。
(4) 仮執行宣言
2 被控訴人ら
(1) 本件控訴(当審における請求拡張部分を含む。)を棄却する。
(2) 控訴費用は控訴人らの負担とする。
第2 事案の概要
1 本件は,控訴人らが,その所有するペットの犬(以下「本件犬」という。)について,獣医師である被控訴人c病院ことa(以下「被控訴人a」という。)との間で治療契約を締結して治療を受けたものの,死亡したことに関し,被控訴人らに説明義務違反があり,また,獣医師の資格を有しない被控訴人b(以下「被控訴人b」という。)が上記治療方針の決定に主導的な役割を果たしたとして,被控訴人らに対し,債務不履行又は不法行為に基づき,①治療費18万2200円,②抗がん剤等購入費11万9910円,③慰謝料300万円(控訴人1人当たり150万円),④弁護士費用20万円の合計350万2110円のうち控訴人1人当たり174万6155円及びこれに対する不法行為の後で,訴状送達の日の翌日である平成15年1月24日から支払済みまで民法所定の年5分の割合による遅延損害金の連帯支払を求めた事案の控訴審である。
原審は,被控訴人らに説明義務違反はなかったとして,控訴人らの請求をいずれも棄却したところ,これを不服とする控訴人らが本件控訴を提起した。
控訴人らは,当審において,被控訴人らの治療義務違反を新たに主張し,上記第1,1(2)のとおり請求を拡張した。
2 前提事実
(1) 控訴人ら(以下,個別的には「控訴人A」,「控訴人B」という。)は夫婦であり,平成元年3月18日から,本件犬(ゴールデンレトリーバー,雌,平成元年2月9日生)を所有し,ペットとして飼育していた(甲1,2)。
(2) 被控訴人aは,獣医師の資格を有し,平成3年以降,石川県Y市内において,「c病院」の名称で動物病院(以下「本件病院」という。)を経営している(乙3)。
被控訴人bは被控訴人aの妻であり,本件病院において被控訴人aの行う診療の補助をしている。
(3) 被控訴人aは,平成11年3月ころ,控訴人らの依頼により,本件犬を初めて診療し,その後も何回か本件犬を診療していたところ,平成14年6月14日,本件犬の左前腕部(左前足)にあった腫瘤(以下「本件腫瘤」という。)を切除する手術(以下「本件手術」という。)を施行した。
(4) 被控訴人aは,平成14年6月24日,本件手術により切除された細胞につき病理組織検査を依頼したところ,同月27日,本件腫瘤が起原不明の肉腫(がんの一種)であることが判明した。
(5) 本件犬は,平成14年7月28日,13歳5か月で死亡した。
3 争点及びこれに関する当事者の主張
(1) 被控訴人らの治療義務違反の有無
(控訴人らの主張)
ア 被控訴人らは,平成12年11月又は遅くとも平成13年8月までに,本件腫瘤があることに気づいたのであるから,その悪性,良性の別を判定するために生検(無麻酔の針生検又は局所麻酔下の針パンチ生検)を行う義務があるのにこれを怠り,悪性,良性の別を判定できる生検を行わないまま放置し,また,本件手術に際しても,生検の実施により必要な切除範囲を検討せず,腫瘤の状態を確認しないまま悪性腫瘤の部分を取り残し,かえって悪性腫瘤を肥大化させ,それにより併発した肺水腫と思われる症状により本件犬を死亡させたから,被控訴人らには治療義務違反がある。
イ 被控訴人らは,控訴人らが本件手術後である平成14年6月21日以降も本件犬を本件病院に通院させた際,本件犬の傷口から何度も出血し,また,傷口が膨らんできていたことを認識したのであるから,本件犬の血液検査を行って適切な治療方針を選択すべき義務があるのにこれを怠り,病理組織検査の結果,本件腫瘤が悪性であることが判明した後も,何ら適切な措置を講ぜず,かえって化膿,壊死している手術部位に抗生物質を投与しないまま副腎皮質ステロイド剤を投与したり,思いつきで傷口を絞り出させるなどしたから,被控訴人らには治療義務違反がある。
ウ 被控訴人らは,本件手術後の平成14年7月25日,本件犬の呼吸異常を認識したから,肺炎,肺気腫,肺水腫という肺の疾患を疑い,そのいずれであるかにより治療方法も異なるため,病因の診断に必要なレントゲン検査を行うべき義務があるのにこれを怠り,かえって病因の診断をしないまま,漫然と肺免疫力の低下につながるステロイド系の薬剤を使用するなどしたから,被控訴人らには治療義務違反がある。
エ 被控訴人らは,本件手術後の平成14年7月28日,息苦しそうにやっと息をしている本件犬に対し,強い痛み止めを注射して,本件犬を死なせたから,被控訴人らには治療義務違反がある。
オ 被控訴人らの上記アないしエの治療義務違反行為により本件犬は死期を早め,平成14年7月28日に死亡するに至った。
(被控訴人らの主張)
被控訴人aは,次のとおり,本件犬の治療につき最善を尽くしており,治療義務違反はない。また,被控訴人bは,動物の治療について何の資格もなく,本件犬の治療につき控訴人ら主張の義務を負うものではない。
ア 被控訴人aは,平成13年8月,本件腫瘤があることを発見し,触診と針生検を行い化膿巣でないことを確認した。針生検による検査ではこれが限界であり,本件腫瘤が悪性か良性かの判断は病理組織検査を行う必要があり,そのためには腫瘤を摘出しなければならないが,腫瘤が発生し成長するものであれば,一般的に摘出することが最善の治療であり,その腫瘤が悪性か良性かは特別の意味を持つものではない。
また,被控訴人aは,本件手術に際しても,本件腫瘤とその周辺部分を最大限可能な範囲で切除した。仮に本件腫瘤に一部取り残しがあったとしても,被控訴人aは,視認できる範囲で,かつ,他の組織そのものの機能を維持することも考慮した上で最大限の範囲の切除を行った。
イ 被控訴人aによる本件手術そのものは適切に行われており,ただ本件腫瘤が悪性のものであったため,本件犬の術後が悪く,出血その他の控訴人ら主張の症状が必然的に現れたにすぎない。
ウ 被控訴人aは,本件犬の呼吸異常に対しても十分な治療を行った。
エ 本件犬は,老犬であり,犬としての一般的寿命(10年ないし15年)がきていたところ,腫瘤による体力消耗,肺炎症状の併発により死んだにすぎない。
(2) 被控訴人らの説明義務違反の有無
(控訴人らの主張)
ア 被控訴人らは,本件手術を行うに際し,控訴人らに対し,本件犬の症状(本件腫瘤の悪性,良性の別),本件手術による回復の見込み,本件手術により生ずる危険,本件手術を施行しない場合に予想される結果等について説明すべき義務があったのにこれを怠り,控訴人らに対し,本件腫瘤が悪性か良性かはわからないが,摘出するしかないと説明するにとどまったから,被控訴人らには説明義務違反がある。
控訴人らは,本件犬が老犬であり,本件手術前の手術の予後があまり良くなかったことから,本件犬に対する再度の手術はできるだけ避けたいと考えていたのであり,そのような控訴人らの意向は被控訴人らにおいて認識していた。したがって,控訴人らは,仮に本件腫瘤について悪性の可能性があること,あるいは,良性のものであっても手術が危険なものであることについて被控訴人らから説明を受けていれば,本件手術に同意せず,穏やかな老後を送らせる選択をしたものである。そして,本件手術前の本件犬の体調は良かったから,本件犬は,本件手術を受けなければ,本件手術の1か月半後に死亡するようなことはなかったのであって,被控訴人らの上記説明義務違反と本件犬の死亡との間に因果関係が存在する。
イ 被控訴人らは,本件手術後の病理組織検査の結果,本件腫瘤が悪性である旨判明したのであるから,これを控訴人らに告知する際,あわせてより高度な治療方法や,本件犬に苦痛を与えないための安楽死の選択についても説明すべき義務があったのにこれを怠り,アガリクス茸等の民間療法を説明するにとどまったから,被控訴人らには説明義務違反がある。
ウ 被控訴人らは,本件手術後の本件犬において,傷口からの出血や,傷口が膨らみ,やわらかくなったり,呼吸困難に陥ったりするなど,異常が発生していたのであるから,控訴人らに対し,その時々の本件犬の症状,その原因,適切な治療方法等を説明すべき義務があったのにこれを怠り,上記イの民間療法を説明するにとどまったから,被控訴人らには説明義務違反がある。
(被控訴人らの主張)
一般に,獣医師が,ペット診療に際し,飼い主に対し,当該ペットの症状や治療方法等に関する説明義務を負担することは認めるが,被控訴人aは,次のアないしウのとおり,控訴人らに対し,本件犬の治療につき十分説明を尽くしたから,説明義務違反はない。また,本件犬は,上記(1)で主張したとおり,その寿命と本件腫瘤による体力消耗等により死亡したのであり,本件手術により死亡したものではない。
被控訴人bが,本件犬の治療につき控訴人ら主張の義務を負うものではないことは争点(1)の場合と同じである。
ア 被控訴人aは,平成13年8月に本件腫瘤を認めた際,控訴人らに対し,本件腫瘤が悪性か良性かは病理組織検査を行う必要があるが,そのためには腫瘤を摘出しなければならないこと,今後,本件腫瘤の肥大化が進むようなら,いずれ摘出する必要があるが,これは本件腫瘤が悪性か良性かは関係がないことを説明した。被控訴人aは,その後も,本件犬を継続的に診察する過程で,本件腫瘤が成長して固くなっており,これを放置すれば,既に後ろ足の悪かった本件犬が歩行困難等に陥ること,成長する腫瘤の最善の治療方法は切除のみであることを説明した。
イ 腫瘤が悪性の場合であっても,犬の治療として,人間における抗がん剤の投与や放射線治療を行うことはまずないから,これを説明する義務はない。
ウ 本件犬の術後の推移は病気の自然な経過であり,被控訴人aは,控訴人らから診察を依頼されるたびに一般的に要求される程度の説明はしていた。
(3) 被控訴人bの主導的役割を根拠とする損害賠償責任の有無
(控訴人らの主張)
被控訴人bは,本件病院において,被控訴人aと共同して,ペットの治療及び医療上の説明をするなど,主導的な役割を担ってきたのであるから,被控訴人aと共同して損害賠償責任を負う。
(被控訴人bの主張)
否認する。
(4) 控訴人らの損害
(控訴人らの主張)
ア 治療費
控訴人らは,本件手術の施行日以降である平成14年6月14日から同年7月24日までの間,本件犬に関する治療費として合計18万5000円を要した。
イ 抗がん剤等購入費
控訴人らは,本件手術後の本件犬の治療のために,抗がん剤等(ペット用アガリクス茸,ガーゼなど)を購入し,その購入代金として12万5905円を要した。
ウ 慰謝料
控訴人ら夫婦にとっては,幼いときから家族同様に暮らしてきた本件犬を失ったことにより,子供を失った親に劣らぬ精神的苦痛を受けたものであるから,これを慰謝するための金額は控訴人1人当たり150万円を下回らない。
エ 弁護士費用
控訴人らは,本件訴訟の提起を弁護士に委任し,その費用として20万円を支払った。
オ 結論
控訴人らは,被控訴人らに対し,それぞれ,上記アないしエの合計351万0905円の半額である175万5452円(円未満切捨て)の連帯支払を求める。
(被控訴人らの主張)
いずれも争う。なお,控訴人らの主張アの治療費には本件手術に関する治療費以外のものが含まれている。
第3 当裁判所の判断
1 認定事実
前記前提事実及び証拠(乙1ないし5,控訴人ら,原審及び当審における被控訴人a,後記各証拠)によれば,本件犬の診療経過について,次の事実が認められ,これに反する控訴人らの供述及び陳述書(甲2,29)は,冒頭掲記の証拠に照らし,信用できない。
(1) 被控訴人aは,平成11年3月ころ,控訴人らが本件犬を連れて本件病院に来院した際,初めて本件犬を診療し,その後も,控訴人らが本件犬を連れて来院するたびに診療しており,本件手術前にも,薬物中毒の治療のほか,腫瘤の手術を何回か施行したことがあった。
(2) 被控訴人aは,平成13年8月25日,控訴人Aが本件犬を連れて本件病院を来院した際,本件犬の左前腕部(左前足)に本件腫瘤があるのを認め,触診と針生検を実施したところ,膿等の液体が出てくることがなかったことから,化膿巣ではないと診断した。しかし,被控訴人aは,針生検ではほとんど細胞が取れず,腫瘤の悪性,良性の別は判断できないものであり,針パンチ生検では,全身麻酔をかける必要があり,そうであれば,本件腫瘤を全部摘出した方がよいと考えていたため,これを実施しなかった。また,被控訴人aは,悪性,良性のいずれであっても,その治療方法としては手術により腫瘤を摘出するしかないと考えていたため,控訴人Aに対し,その旨説明した上,①直ちに手術を希望するのであれば手術する,②直ちに手術を希望しないのであれば経過観察するほかないが,本件腫瘤が肥大化するのであれば,手術をした方がよい旨を伝えた。
これに対し,控訴人らは,本件犬につき以前に行った腫瘤の手術の予後が思わしくなく,本件犬が既に相当の老犬であったことから,よほどのことがない限り手術は受けさせたくないと考え,この時は,被控訴人aの勧める手術を希望しなかった。
(3) もっとも,本件犬は関節症により後ろ足が悪かったこと等から,控訴人らは,その後も,本件犬を連れて何回か本件病院に来院しており,被控訴人aは,平成14年5月29日(以下,平成14年については,年の記載を省略する。),控訴人らが本件犬の後ろ足の関節症治療のため来院した際,控訴人らから,だんだんと大きくなっていた本件腫瘤が何であるかの質問を受けたことがあったが,この時も,従前同様に,本件腫瘤を摘出した上で病理組織検査をしなければわからない旨説明しただけであった。
(4) 被控訴人aは,6月初めころ,控訴人Bに対し,本件腫瘤が大きくなってきたことからその摘出手術を勧めたが,その際,本件腫瘤が悪性のものであれば摘出した方がよく,良性のものであったとしても,だんだんと大きくなってきているので,後ろ足の悪い本件犬の歩行に支障をきたす前に摘出した方がよい旨説明した。被控訴人aは,控訴人Bの依頼により,控訴人Aに対しても,再度,同様の説明をして本件腫瘤の摘出手術を勧めたところ,控訴人らは,本件腫瘤の摘出手術に同意し,他2か所にあった本件腫瘤とは別の腫瘤の摘出手術についても合わせて同意した。
(5) 被控訴人aは,6月14日,控訴人らから同意の得られた本件腫瘤を含む上記3か所の摘出手術を行った。被控訴人aは,本件腫瘤の摘出に際し,その部位に照らし,これを根こそぎ取ることが不可能であったため,他の機能を損なわない範囲で最大限の切除を行った。被控訴人aは,もともと本件腫瘤が悪性のものか良性のものかにかかわらず,同一範囲について切除するとの治療方針を有しており,実際に行った切除範囲も同治療方針に沿ったものであった。
(6) 被控訴人aは,6月17日,本件犬の術部が腫れたため,抗生剤,消炎剤等で治療したところ,当該術部の腫れは引いたが,今度は,別の部位が腫れていたため,これを排膿して治療した。被控訴人aは,同月21日,同月22日,同月25日にも,本件犬の術部とは別の部位が腫れているため,これに対する治療をした。
(7) 被控訴人aは,6月24日,マルピー・ライフテック株式会社臨床検査センターに対し,摘出に係る3か所の腫瘤を送付して病理組織検査を依頼したところ,同月27日,同センターによる病理組織診断は次のとおりであった(乙1)。
ア 本件腫瘤は,起原不明の肉腫である。不整形から類円形の異型細胞が多数増殖しており,細胞間に膠原線維基質が豊富な部分と粘液状基質が豊富な部分,基質が乏しく細胞密度が高い部分が見られた。個々の細胞はやや大型で大小不同が強く,核は不整形で分裂像が多く見られた。くびれや大型明瞭な核小体を持つ核や巨核の細胞も見られた。細胞室内空胞を持つ腫瘍細胞も多く見られた。紡錘形の腫瘍細胞も認められたが,特異的な配列は確認されなかった。作製した標本上では腫瘍細胞が脈管へ浸潤する像は認められなかったが,標本の断端部にも腫瘍細胞が見られた。
本件腫瘤は,肉腫であることは確かだが,由来を特定できる明らかな所見は得られなかった。可能性としては,悪性神経鞘腫,脂肪肉腫などが考えられたが,他の腫瘍の可能性も否定できない。脈行性の遠隔転移よりは局所の破壊浸潤性増殖に対する注意が必要である。再発した場合には早期に広範囲な再切除を行うことが重要である。
イ 他の2か所にあった本件腫瘤とは別の腫瘤は,脂肪腫と乳腺癌であり,前者は,成熟脂肪組織で構成されており,悪性所見を示す成分の増殖や浸潤は見られない良性腫瘍であり,外科的切除により良好な経過を示すものであったが,後者は,乳腺上皮細胞が豊富な硝子間質を伴って増殖しており,腫瘍細胞は立方から不整形で核異型がやや強く,異型腺管の形成も見られ,硝子間質には軟骨化生が起きており,作製した標本上では,腫瘍細胞が脈管へ浸潤する像は認められなかったが,腫瘤部のみの送付のため,腫瘍と周囲組織との関連が不明であり,周囲組織への浸潤性が乏しければ,完全切除により良好な経過を示す可能性もあるが,定期的観察には十分な注意が必要である。
(8) 被控訴人aは,6月28日,控訴人らに対し,上記病理組織検査の結果を伝えた上,①本件腫瘤が悪性の腫瘍であるため,再発の可能性が高く,再発した場合は断脚するしかないが,本件犬には後ろ足に関節症があるため,断脚も難しいかもしれない旨説明し,また,②他の治療方法として,抗がん剤投与や放射線治療はあるが,前者はまず効果がなく,後者も,三重県方面にそのような専門の施設があるが,やはり効果がないと思う旨説明した。他方,被控訴人aは,控訴人らに対し,他に治療方法がないことから,気休めかもしれないと告げた上,アガリクス茸やサメ軟骨等の民間療法がある旨説明した。
(9) 被控訴人aは,本件犬の術部の治療のほか,その後ろ足の関節症の治療も継続して行っていたところ,7月9日以降,本件犬の術部が腫脹して腫瘤が再発し,壊死が始まりつつあったことから,その治療方法としては再手術又は断脚しかないと考え,その旨控訴人らに説明した。ところが,控訴人らは,再手術,断脚のいずれにも同意することはなく,被控訴人aに対し,術部に対する独自の処置を行っても大丈夫かと質問し,被控訴人aから,人間に使っても大丈夫なものなら多分大丈夫だと思うが,自己責任でやるようにとの回答があったこともあって,以後,本件犬の術部の処置は,控訴人らが独自に行うようになり,被控訴人aが術部に対する治療を行うことはなかった。
(10) その後の本件犬の症状は次のとおりであった。すなわち,7月25日,腫瘍が大きくなり,後肢麻痺により起立不能となり,同月26日,排尿できず,食欲もあまりない状態となった。そこで,控訴人Bは,本件犬を連れて本件病院に受診した際,術部からの出血により腫瘍が小さくなったような気がしたことから,このまま悪い血が出て腫れが引いてくれないかと思い,絞り出してもよいものかを被控訴人bに尋ねたところ,これに協力しようとした被控訴人bは,被控訴人aから,きりがないという趣旨で止めろと言われたものの,それ以上の反対がなかったこともあって,本件犬の術部を絞り出した(甲29)。
(11) 被控訴人aは,7月27日,同月28日昼ころ及び同日夜間の3回,控訴人らの依頼によりそれぞれ往診した。被控訴人aの診断によれば,本件犬は肺炎を併発した可能性があり,死期も迫っているため,症状緩和のための対症療法として水分補給,抗生物質及び気管支拡張剤の注射等の治療を行うことしかできず,既に手の施しようのない状態であった。本件犬は,7月28日夜間,死亡した。
2 争点(1)(被控訴人らの治療義務違反の有無)について
(1) 平成7年6月20日発行「小動物の臨床腫瘍学」(甲26)によれば,ペット治療における医学的知見として,次の事実が認められる。
ア がんの治療の第1のステップは,的確な生検材料の採取と解釈である。生検は,診断だけではなく,腫瘍の生物学的行動を予測する助けにもなり,有効な治療のタイプと範囲を決定する助けになる。不適切な生検又は生検の省略は,治療に重大な影響を与える。ほとんどすべての腫瘤は,除去の前と後に病理組織学的に評価すべきである。腫瘤が外科的切除を必要とするなら,組織の分析が必要である。
イ 生検の手技と使われる器具はさまざまであるが,共通する目的は正確な診断のために適切な腫瘍組織を得ることである。どの方法を使うかはその症例をどうするか,腫瘤の位置,利用できる器具,動物の一般状態及び獣医師の好みと経験によって決められる。このうち針パンチ生検は,さまざまなタイプの針で芯をくり抜く器具を用いて組織を採取するものである。試料の大きさは小さいが,病理の専門家は組織と腫瘍細胞の構造的関係を見ることができる。この方法で外から到達可能なほとんどの腫瘍の試料が得られる。針パンチ生検がもっとも普通に使われるのは表在性の触知可能な腫瘤に対してである。高度に炎症性かつ壊死性のがん(特に口腔内の)には切開生検が適しているが,それらを除けば多くの生検は入院を必要とせず,局所麻酔とまれに鎮痛剤のみを使って行える。この生検は,迅速,安全,容易かつ安価であり,多くは入院させないで行うことができる。結果は,細胞診断より正確であるが,切開あるいは切除生検には劣る。
ウ 治療のタイプ(手術,放射線,化学療法あるいはその他のもの)又は治療の範囲(保存的か積極的除去か)は腫瘍のタイプを知ることによって変わる。再構築が難しい部位の外科手術(たとえば,四肢端,尾,頭及び頸部)であるか,あるいは提案された方法が明らかに後遺症を残す場合(たとえば,下顎切除,断肢)には,生検が特に重要になる。ほとんどすべての外部からアプローチできる腫瘤は,良性皮膚腫瘍を除いて,手術前に組織生検を行うべきである。他方,腫瘍のタイプを知っても治療が変わらない場合(孤立性肺腫瘤に対する肺葉切除あるいは脾の腫瘤に対する脾切除)又は生検が治療と同じくらい難しい,あるいは危険な場合(脳生検)には,生検は行わず,外科的に切除された材料から生検情報を得るべきである。
(2) 上記1認定の事実及び上記(1)認定の医学的知見によれば,本件腫瘤のあった部位は左前腕部(左前足)であり,その生検材料の採取が困難な状況にあったとも,危険を伴うものであったともいえず,本件腫瘤が悪性のものであり再発すれば断脚(断肢)するしかなく,既に後ろ足に関節症の症状のあった本件犬にとって重大な障害を残す状況にあったのであるから,被控訴人aは,遅くとも6月14日の本件手術施行前に,本件腫瘤につき悪性,良性の別の診断に必要な生検(針パンチ生検を含む。)を行うべき義務があったというべきである。ところが,被控訴人aは,これを怠り,針生検では,腫瘤の悪性,良性の別は診断できないと思いながら,触診及び針生検を実施したにとどまり,腫瘤の悪性,良性の別を診断できる針パンチ生検等の他の生検を行わなかったため,本件腫瘤の悪性,良性の別を診断しないまま本件手術を施行するに至ったのであるから,この点において,被控訴人aにはペットの治療契約上なすべき生検をなさずに本件手術をしたという治療義務違反があったというべきである(なお,控訴人らは,検査時期につき平成12年11月又は遅くとも平成13年8月までと主張するかのようであるが,上記(1)の医学的知見によれば,ペットに対する重大な侵襲を伴う手術前に生検を要求するにとどまるほか,経過観察する時間的余裕の有無にかかわらず,また,手術の実施の有無とは無関係に,いかなる段階にあっても生検の実施が要求されるとまでは認められない。控訴人らも,上記時点では,本件犬が既に相当の老齢であり,本件手術前にも何回か手術を繰り返し受けていたため,本件犬について更なる負担を伴う腫瘤の外科的切除を積極的に希望していたわけではなく,むしろできるなら避けたいとの意向を有し,これを被控訴人aに伝えていたこと(甲29)も併せ考慮すれば,被控訴人aが針パンチ生検等を行うべき時期は上記説示の時期で足りるものというべきである。)。
被控訴人らは,本件腫瘤が悪性のものか良性のものかは治療内容に影響しないかのように主張するが,上記(1)認定の医学的知見によれば,腫瘍のタイプにより治療内容が変わることが一般的に予定されており,本件犬の手術部位等に照らすと,腫瘍のタイプを知っても治療が変わらない例外的な場合にも該当しないことは明らかである上,悪性の腫瘍の場合であっても,手術以外に保存的治療法を含む他の治療法もあったのであるから,上記主張は採用できない。
(3) 控訴人らは,被控訴人らには本件腫瘤を取り残した点でも治療義務違反がある旨主張し,確かに,特定のがん(たとえば,軟組織肉腫,口腔線維肉腫あるいは肥満細胞腫瘍)は局所再発性が高いので,良性の腫瘍の場合より広く切除しなければならないことは認められるが(甲26),被控訴人aは,本件腫瘤のあった部位が左前腕部(左前足)であり,断脚(断肢)せずに,その機能を保持しようとする範囲では最大限に切除した旨供述し,被控訴人aの治療方針が悪性であれ良性であれ切除の範囲は異ならないものであったことに照らすと,被控訴人aは,断脚せずに腫瘤を摘出するという手術条件下において,上記1で認定したとおり,最大限の切除を行ったと認めるのが相当であるから,被控訴人aに本件腫瘤の切除に関する治療義務違反があったと認めるに足りず,他にこれを認めるに足りる証拠はないから,上記主張は採用できない。
(4) 控訴人らは,被控訴人らには,本件手術後である6月21日以降,血液検査を行って適切な治療方針を選択すべき義務違反がある旨主張するが,術部からの出血等があれば必ず血液検査を行わなければならないとの医学的知見を認めるに足りる証拠はなく,また,上記1認定の事実によれば,被控訴人aは抗生剤,消炎剤等の投与を行うなど,本件手術後の本件犬の術部に対する一応の治療を実施しており,何ら処置を講じなかったわけではない。もっとも,被控訴人aが,7月9日以降,本件犬の術部に対する処置を講じなかったことはあるが,上記1認定の事実によれば,本件犬につき壊死が始まり断脚するしか治療方法がないとの被控訴人aの治療方針(上記時点に限っての治療方針として不適切であることを認めるに足りる証拠はない。)を控訴人らが受け入れられず,独自の処置を行うことを自ら選択したことによるのであるから,これをもって被控訴人aの治療義務違反があったとはいえない。
控訴人らは,被控訴人らが本件犬の傷口を絞り出させたとも主張するが,上記1認定事実によれば,壊死が始まって約2週間が経過した7月25日のことであり,医学的には断脚以外の治療方法があったとは考えられず,また,もともとこれは控訴人Bの発案によるところ,被控訴人aは被控訴人bがこれに協力しようとしたのを強く反対しなかったにすぎないのであって,医学的に無意味な行動であっても,本件犬の飼い主である控訴人Bの思うとおりにさせてやろうとしたとも考えられるのであるから,これをもって被控訴人aの治療義務違反があったとはいえない。控訴人らの上記主張も採用できない。
(5) 控訴人らは,被控訴人aが,本件手術後の本件犬の呼吸異常が肺炎,肺気腫,肺水腫のいずれによるものかの診断に必要なレントゲン検査を行うべき義務違反がある旨主張する。確かに,7月27日には本件犬の呼吸異常があり,これを往診した被控訴人aも肺炎併発の可能性を認識したのであるが,同時点では,本件犬は死期の迫っている状態にあったため,被控訴人aは症状緩和のための対症療法を行ったものと認められるから(上記1(11)),同時期にレントゲン検査を行って上記呼吸異常の原因を診断し,その上で治療に当たることで,本件犬の延命にどの程度効果があったかは証拠上不明といわざるを得ないから,被控訴人aがレントゲン検査を行わなかったからといって,治療義務違反があるとまではいえない。その他,控訴人らは,肺免疫力の低下につながるステロイド系の薬剤を使用したり強い痛み止めを注射した点で被控訴人aには治療義務違反があるとも主張するが,前者は炎症に対する対症療法である消炎剤として(甲13),後者は絶命寸前の本件犬を眼前にしながら少しでも生き長らえさせたいとの控訴人らの希望(控訴人B)に沿って鎮痛剤,強心剤等として(乙4)投与されたにすぎないのであるから,これをもって被控訴人aに治療義務違反があるとはいえない。
(6) 上記(1)ないし(5)に説示したところによれば,被控訴人aには,本件手術に際し,その実施前において,本件腫瘤の悪性,良性の別の診断に必要な生検を行うべき治療契約上の治療義務(以下「本件生検義務」という。)があったのに,これを怠った義務違反行為(過失)があったが,控訴人ら主張のその余の治療義務違反はこれを認めることができない。
そして,本件生検は,それにより本件腫瘤の悪性,良性の別が診断され,それに従って以後の本件犬の治療方法について飼い主である控訴人らに対する説明がなされ,その同意の下に治療方針が決定されるための前提となる検査であるから,本件犬に対する本件手術の実施の要否等に関する説明義務に関連するのであるが,同説明義務と本件手術との関係及び本件手術と本件犬の死亡との関係に関しては後記3で判断することとし,この点を除くと,本件生検をしなかったことそのことにより,本件犬が死亡すべき時期でない時期に死亡したとの事実を認めるに足りる証拠はない。すなわち,上記1で認定した本件犬に対する治療経過及び上記(1)ないし(5)の説示によれば,本件腫瘤は悪性のものであり,その除去を目的とする本件手術は積極的な治療法として本件犬についても適応があったことが認められ(なお,控訴人らは,本件腫瘤が肥満細胞腫というメスを入れるだけで増殖スピードを早めてしまう腫瘍であった可能性がある旨主張するが,本件手術により摘出した本件腫瘤部分に関する病理組織検査(乙1)でも,本件腫瘤が肥満細胞腫である事実は確定されていないし,他に同事実を認めるに足りる証拠はないから,本件腫瘤について本件手術の適応がなかったということはできない。),また,被控訴人aが実施した本件手術について腫瘍部分の取り残し等の治療義務違反行為を認めることはできない。そして,前記前提事実並びに証拠(甲20)及び弁論の全趣旨によれば,本件犬は,生後13年余りの老齢犬であること,本件犬が属するゴールデンレトリーバーについては,10歳までに死亡するものが多いこと,本件犬には,本件手術当時,本件腫瘤のほか,後足の関節症等の疾病もあったことが認められるから,本件手術当時,本件犬についてそれほど長期の余命はそもそも期待できないものと推認される。以上の諸事実によれば,本件手術の実施に際し本件生検が行われなかったことにより,本件犬の死期が早まったものと断定することはできないというべきである。
(7) 控訴人らは,被控訴人bについても,被控訴人aと同じ治療義務違反がある旨主張する。
しかし,前記前提事実及び上記1の認定事実によれば,本件犬の治療契約は,その飼い主である控訴人らと獣医師である被控訴人aとの間で締結されたのであって,被控訴人bは,獣医師の資格を有せず,被控訴人aが経営する動物病院において被控訴人aの行う治療行為の補助をしていた者にすぎないから,被控訴人bは,同治療契約の当事者ではなく,したがって,被控訴人aと共にであっても,同治療契約に基づく債務としての治療義務や説明義務を担うものということはできない。そして,被控訴人bが,同治療契約に基づく本件犬の治療の過程において,被控訴人aの指示に基づきその指示のとおりの治療補助行為を本件犬に対して行い,また,被控訴人aの了解の下に本件犬の治療に関する説明を控訴人らに行ったとしても,当該行為による債務不履行又は不法行為としての責めは被控訴人aが負うべきものであり,被控訴人bは原則として負わないというべきであって,このことは,被控訴人aの上記指示又は了解が被控訴人bの発案ないしは提案を被控訴人aが承諾するという経過をとって被控訴人bに対してなされたものであったとしても,同一であるというべきである。もっとも,被控訴人bが,被控訴人aの上記指示を実行する際,故意又は過失により本件犬の身体に対して上記指示以外の侵襲を与えたという場合や被控訴人aの指示のない行為をして本件犬の身体に対して侵襲を与えたという場合,また,被控訴人aの了解を得ないで,本件犬の治療に関する説明を控訴人らに行い,そのことが本件犬の治療に関する控訴人らの対応を誤らせる原因となったという場合には,被控訴人bが,被控訴人aと別個に又は被控訴人aと共に,不法行為法上の責めを負うことになることはいうまでもない。
上記1で認定した本件犬の治療経過並びに原審及び当審における被控訴人aの供述によれば,被控訴人bは,同治療契約に基づく本件犬の治療の過程において,被控訴人aの指示に基づきその指示のとおりの行為を本件犬に対してしたことが認められるが,被控訴人aの上記指示を実行する際,本件犬の身体に対して上記指示以外の侵襲を与えたとの事実も,被控訴人aの指示のない行為をして本件犬の身体に対して侵襲を与えたとの事実も認めることはできない。したがって,被控訴人bについて,控訴人ら主張の治療義務違反を認めることはできず,その旨をいう控訴人らの上記主張は採用できない。
3 争点(2)(被控訴人らの説明義務違反の有無)について
(1) ペットは,財産権の客体というにとどまらず,飼い主の愛玩の対象となるものであるから,そのようなペットの治療契約を獣医師との間で締結する飼い主は,当該ペットにいかなる治療を受けさせるかにつき自己決定権を有するというべきであり,これを獣医師からみれば,飼い主がいかなる治療を選択するかにつき必要な情報を提供すべき義務があるというべきである。そして,説明義務として要求される説明の範囲は,飼い主がペットに当該治療方法を受けさせるか否かにつき熟慮し,決断することを援助するに足りるものでなければならず,具体的には,当該疾患の診断(病名,病状),実施予定の治療方法の内容,その治療に伴う危険性,他に選択可能な治療方法があればその内容と利害得失,予後などに及ぶものというべきである。
(2) これを本件についてみると,上記1認定事実によれば,被控訴人aには,争点(1)で説示したとおり,本件腫瘤の悪性,良性の別を診断するための生検を行わなかった点で既に本件生検義務違反を内容とする治療義務違反が認められるものであるが,被控訴人aは,そのこともあって,本件手術の実施に際し,控訴人らに対し,本件腫瘤が悪性,良性のいずれのものであっても摘出するしかないこと,本件腫瘤が大きくなっているため,もともと後ろ足の悪かった本件犬の歩行に支障を来すおそれがあることを説明するにとどまり,本件手術に伴う危険性として,本件腫瘤が悪性である場合には,術後再発したときは断脚するしかないことについては説明しなかったのであるから(被控訴人aがこれを説明したのは本件手術施行後の病理組織検査結果が判明した後であった。),この点につき被控訴人aにはペット治療契約上の説明義務違反があるというべきである。
そして,上記1の本件犬の治療経過に関する事実及び証拠(甲2,20,29,甲31の1ないし9,控訴人ら)によれば,本件犬が,平成14年6月当時,既に老齢であったことや本件手術前の腫瘤の手術結果が思わしくなかったことなどから,控訴人らは,本件犬についてできるだけ余生を平穏に過ごさせてやろうと考えていたこと,そのため,控訴人らは,被控訴人aから,本件腫瘤が悪性のものであり,本件手術にもかかわらず完治せず再発した場合には,断脚のほかに治療法がないことの説明を受けていれば,本件犬にとって負担となる本件手術に同意することはなく,経過を観察しながらの保存的な治療を選択することになったものと認められ,また,本件犬が本件手術を受けることなく,上記のような保存的な治療をした場合には,上記2(6)のとおり本件犬についてそれほど長期の余命は期待できないものとしても,本件手術後1か月半程度で死亡することはなかったものと推認することができる。
(3) 控訴人らは,本件手術後に本件腫瘤が悪性であることが判明した際,被控訴人らがより高度な治療方法又は安楽死についても説明すべき義務があるのにこれを怠った旨主張する。
しかし,上記1認定事実によれば,被控訴人aは,再発の場合には断脚することのほか,治療効果に疑問を呈しつつも,抗がん剤の投与や放射線治療の他に選択可能な治療方法につき一応の説明を尽くしているのであるから(甲24によれば,被控訴人aの説明どおり,日本で放射線治療が受けられる病院が三重県にあったことが認められる。),この点につき被控訴人aに説明義務違反があるとはいえない。また,安楽死の点については,安楽死(控訴人らの主張は,延命措置の中止という消極的安楽死ではなく,生命の短縮を伴う積極的安楽死をいうものと解される。)は,ペットの持続する苦痛を除去するものとはいえ,一般に治療行為と評価することはできないものであるから,飼い主が獣医師に対しこれを積極的に希望することを明確に表明した等の特段の事情がない限り,獣医師が安楽死につき説明すべき義務を負うものではないというべきであるから,控訴人らの上記主張は採用できない。
(4) 控訴人らは,被控訴人aが本件手術後のその時々の本件犬の症状,その原因,適切な治療方法等を説明すべき義務があるのにこれを怠った旨主張する。
しかし,上記1認定事実によれば,被控訴人aは,本件腫瘤が悪性のものであることが判明した後は,その旨及びこれに対する効果的な治療方法として再手術か断脚しかない旨説明し,実際に再発した際もこれを説明していたものである。そして,本件犬の死期が迫った時点では,その症状,その原因を診断し,これを控訴人らに説明したとしても,控訴人らが選択し得る適切な治療方法はもはや存しなかったのであるから,控訴人らの自己決定のために説明すべきものは何もなかったといわざるを得ないから,上記主張は採用できない。
(5) 控訴人らは,被控訴人bについても被控訴人aと同じ説明義務違反がある旨主張する。
しかし,被控訴人bが,本件犬の治療契約についての当事者でないため,控訴人ら主張の説明義務を当然に負うものでないことは,上記2(7)で説示したところから明らかである。そして,上記1で認定した本件犬の治療経過並びに原審及び当審における被控訴人aの供述によれば,被控訴人bは,同治療契約に基づく本件犬の治療の過程において,被控訴人aの了解を得ないで,本件犬の治療に関する控訴人らの対応を誤らせる原因となるような本件犬の治療に関する説明を控訴人らに行ったとの事実を認めることはできない。
したがって,控訴人らの上記主張は採用できない。
4 争点(3)(被控訴人bの主導的役割を根拠とする損害賠償責任の有無)について
控訴人らは,被控訴人bが,本件病院において,被控訴人aと共同して,ペットの治療及び医療上の説明をするなど,主導的な役割を担ってきたのであるから,被控訴人aと共同して損害賠償責任を負う旨主張する。
しかし,上記1の事実並びに上記2(7)及び3(5)で説示したとおり,被控訴人bは,獣医師の資格を有するものではなく,せいぜい被控訴人aの妻として被控訴人aの履行補助者的な地位にあったにとどまり,本件犬の治療に関する被控訴人aの指示あるいは了解に基づく行為(治療補助行為や説明補助行為)をしたものであって,被控訴人bが同治療において主導的な役割を担っていたものということはできないから,控訴人らの上記主張は,その前提を欠き採用できない。
なお,上記1の認定事実によれば,被控訴人bが本件犬の傷口を絞り出す行為を行ったことはあるものの(上記1(10)の事実),術部が壊死に至り断脚以外に有効な医学的措置が講じられない状況において,これを放置しておけないとする控訴人Bの希望に沿った対応をしたにすぎず,また,そのことにより,本件犬の死期が早まったことを認めるべき証拠はないから,これをもって被控訴人bが損害賠償責任を負う根拠となるものではない。
5 争点(4)(控訴人らの損害)について
(1) 治療費について
被控訴人aは,争点(1)及び(2)につき説示した限度で治療義務違反及び説明義務違反があったのであるから,これと相当因果関係のある控訴人らの損害を賠償すべき義務を負うところ,上記2(2)及び3(2)のとおり,控訴人らは,被控訴人aのペット治療契約上の上記義務違反がなければ,本件犬に本件手術を受けさせることはなかったのであり,したがって,本件手術費,術後の当該術部に対する治療費を負担することもなかったのであるから,これらはいずれも相当因果関係のある損害というべきである。
しかし,控訴人ら主張の治療費(合計18万5000円)に対応する治療期間(6月14日から7月24日まで)においては,被控訴人aは,本件手術前から罹患していた後ろ足の関節症の治療のほか,本件手術における術部とは無関係な部位の治療を並行して実施していたものであり,また,本件手術に際しても,本件腫瘤以外の腫瘤の摘出を2か所行ったものであるところ,控訴人らの損害額の算定根拠とするカルテ(乙2)の記載を見ても,これら他の治療費と本件手術を原因とする治療費とを判然と区別できず,他に被控訴人aからの領収証の発行,ペット治療における診療報酬の一般的な基準の有無及び内容を認めるに足りない本件においては,民事訴訟法248条により,この点に関する控訴人らの損害額は7万円とするのが相当である。
(2) 抗がん剤等購入費について
上記1認定事実によれば,被控訴人aは,控訴人らに対し,抗がん剤の投与等はほとんど効果がなく,民間療法も気休めにすぎない旨説明していたにもかかわらず,控訴人らは,敢えて本件犬のために抗がん剤等を購入したものであるから,その購入費は控訴人ら独自の判断に基づく出捐であり,被控訴人aの治療義務違反及び説明義務違反と相当因果関係があるとはいえず,他にこれを認めるに足りる証拠はない。
(3) 慰謝料について
本件犬は,13歳5か月で死んだものであり,ゴールデンレトリーバーの寿命は概ね10歳(甲20)程度であることからすれば,相当の老犬であり,また,結果的にも悪性の腫瘍に罹患していたのであるから,血統証明書(甲1)付きのものであるとしても,本件手術当時におけるその交換価値はほぼ皆無であったと推認される。しかし,本件犬は,その誕生間もないころから約13年間の長きにわたり控訴人ら家族の一員として共に暮らし,子供のいない控訴人らにとって本件犬は正に我が子のような存在であり,そのように可愛がってきたことが認められる(甲2,甲3の1ないし8,甲25の1ないし31,甲29,甲31の1ないし9,控訴人ら本人)。したがって,控訴人らにおいて,余命少ない本件犬に,大きな苦痛を与えることなく,平穏な死を迎えさせてやりたいと考えることもごく自然な心情であって,本件犬の治療方法を選択するに当たっての控訴人らの自己決定権は十分尊重に値するものということができる上,本件手術により本件犬の死期が早まったものと認められるから,上記自己決定権を侵害され,本件犬を早い時期に失ったことにより控訴人らの被った精神的苦痛は慰謝に値するというべきである。
以上の点のほか,本件に現れた諸般の事情を考慮し,控訴人らの被った精神的苦痛を慰謝するには控訴人1人当たり15万円(合計30万円)が相当である。
(4) 弁護士費用について
控訴人らが本件訴訟の提起及び追行を控訴人ら訴訟代理人弁護士に委任したことは記録上明らかであるところ,本件事案の内容,審理経過,認容額等の諸般の事情を考慮すると,上記の治療義務違反及び説明義務違反と相当因果関係のある控訴人らの弁護士費用は5万円と認めるのが相当である。
6 結論
以上によれば,控訴人らの被控訴人aに対する債務不履行に基づく損害賠償請求は各21万円(上記5(1),(3),(4)の合計42万円の2分の1)及びこれに対する訴状送達の日の翌日である平成15年1月24日から支払済みまで民法所定の年5分の割合による遅延損害金の支払を求める限度で認容し(不法行為に基づく損害賠償請求についても,上記認容額を上回るものではない。),その余は棄却すべきであり,控訴人らの被控訴人bに対する請求は棄却すべきである。
よって,原判決中,被控訴人aに対する請求に関する部分を上記の趣旨に変更し,被控訴人bに対する控訴(当審における請求拡張部分を含む。)は理由がないからこれを棄却し,当審認容部分につき民事訴訟法310条により仮執行宣言を付すこととして,主文のとおり判決する。
名古屋高等裁判所金沢支部第1部
裁判長裁判官 長門栄吉
裁判官 渡邉和義
裁判官 田中秀幸
犬の糖尿病治療について、獣医師がインスリンの投与を怠ったとして、飼い主からの損害賠償請求が認められた事例[原告夫婦各40万3105円を認容。うち死亡による精神的苦痛についての慰謝料は各30万円] (平成16・5・10東京地裁)平成15(ワ)16710
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主 文
1 被告A及び被告Bは,原告Aに対し,連帯して40万3105円及びこれに対する平成15年8月4日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
2 被告A及び被告Bは,原告Bに対し,連帯して40万3105円及びこれに対する平成15年8月4日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
3 原告らの被告A及び被告Bに対するその余の請求並びに被告Cに対する請求をいずれも棄却する。
4 訴訟費用は,原告らと被告A及び被告Bとの間においては,原告らに生じた費用の5分の1を被告A及び被告Bの負担とし,被告A及び被告Bに生じた費用の5分の4を原告らの負担とし,その余は各自の負担とし,原告らと被告Cとの間においては,全部原告らの負担とする。
5 この判決は,第1項及び第2項に限り,仮に執行することができる。
事実及び理由
第1 請求
1 被告らは,原告Aに対し,連帯して219万4131円並びにこれに対する被告A及び被告Bについては平成15年8月4日から,被告Cについては同月3日から,各支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
2 被告らは,原告Bに対し,連帯して219万4131円並びにこれに対する被告A及び被告Bについては平成15年8月4日から,被告Cについては同月3日から,各支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
第2 事案の概要
原告らは,原告らがCと名付けて飼っていた日本スピッツ犬(以下「本件患犬」という。)が,被告A(以下「被告A」という。)の開設するD獣医科病院(以下「被告病院」という。)で糖尿病治療を受けたが,同病院の獣医師らが,インスリンの投与を怠ったために死亡したとして,本件患犬の治療を担当した獣医師である被告らに対し,被告Aに対しては不法行為又は診療契約の債務不履行に基づいて,被告B及び被告Cに対しては不法行為に基づいて,損害賠償金の支払を求めるものである。
1 前提事実(証拠を掲げない事実は当事者間に争いがない。)
(1) 当事者
ア 原告ら等
原告らは,平成5年1月4日生まれの日本スピッツ犬である本件患犬の飼い主であった(甲A4,A5,C2からC9の1まで,乙A1・1頁,7頁)。
イ 被告ら
被告Aは,東京都O区a町b番c号において被告病院を開業しており,被告病院の院長である。被告B及び被告Cは,被告病院に勤務する獣医師である。
(2) 被告病院における診療経過
原告らは,平成11年4月20日から,本件患犬を被告病院に通院させていた。原告らは,平成14年12月28日に被告病院で本件患犬の診療を受け,被告Aとの間で,本件患犬に対し,糖尿病治療をはじめとする必要な治療,適切な医療行為を行うことを内容とする診療契約(以下「本件診療契約」という。)を締結した。
原告らは,翌29日にも本件患犬の診療のために被告病院を受診し,本件患犬を被告病院に入院させることとなった。
本件患犬は,平成15年1月2日から,E動物病院(横浜市a町所在)に転医して治療を受けたが,同月3日午後10時20分に死亡した(甲B2)。本件患犬についての診療経過は,別紙診療経過一覧表記載のとおりである(当事者の主張の相違する部分を除き,当事者間に争いがない。)。
2 争点
(1) 被告らが本件患犬にインスリンを投与しなかったことに注意義務違反があるか。
(原告らの主張)
ア 原告らの主張の概要
被告らは,平成14年12月28日の診察の時点及び翌29日の被告病院入院以降,本件患犬の血糖値が高値を示し,糖尿病の典型的症状が出ているにもかかわらず,インスリンを投与せず,適切な治療を怠った。このため,本件患犬は,ケトアシドーシスとなり,平成15年1月2日には完治不能の状態となり,翌3日に心不全で死亡した。
イ 糖尿病について
犬の糖尿病の典型的症状としては,血液検査の結果,高血糖,ALP高値,GPT高値,K低値がみられること,食欲不振,嘔吐,虚脱が挙げられる(甲B7,B8)。犬の血糖値は,平常時には50から124mg/dl(以下,検査数値については単位を省略する。)が基準値とされており,150から200以上であれば高血糖であり,180以上の場合は重症な高血糖とされる(甲B7)。
糖尿病にはインスリン依存型とインスリン非依存型があるが,犬の場合はほとんどが依存型である。インスリンが体内で正常に作られないときにはインスリンの投与が必要であり,インスリンの投与が唯一の治療方法となる(甲B3,B5,B6)。インスリンにも効き目に応じて3種類あるが,血糖値が400に近い場合,又はこれを超える場合には速効型のインスリンを投与すべきである。犬の場合,食欲不振,脱水,嘔吐などの症状が現れた場合には糖尿病の症状が進行しているので注意が必要とされる(甲B8,B9,B11,B12)。
インスリンを投与しないで放置すると,ケトン体が出てしまい,悪化してケトアシドーシスとなり,様々な合併症を引き起こすことから,ケトン体が出たときは緊急かつ集中的な治療が必要とされ(甲B3,B7,B9,B11),カリウム値などの電解質に注意しながらインスリンを投与するのがケトアシドーシス治療の常識であるとされる(甲B3,B7,B9)。
ウ 被告Aの責任
(ア) 被告Aの注意義務違反
a 原告らは,平成14年12月28日,本件患犬を連れて伊豆下田へ旅行に行く途中,本件患犬が前夜に食べ過ぎたわかめを少量嘔吐したことから,熱海でF動物病院に立ち寄ったところ,血液検査で,肝疾患を患っていることのほか,血糖値が338と高血糖で,糖尿病であることが判明し(甲A1),かかりつけの獣医にインスリンの投与量を決めてもらうように指示を受けた。そこで,同日,原告らは東京に引き返して被告病院を受診した。
本件患犬の被告病院における血液検査の血糖値は,平成14年12月28日時点で365であり,翌29日の被告病院入院時は398,同日夕方には最高559を示しており,その後も高血糖値が継続している。
このような血糖値が高値を示している状況においては,被告Aは本件患犬に対し,インスリンを投与し,糖尿病の治療をすべき義務があったというべきである。にもかかわらず,被告Aは,食事療法を選択し,血液検査や生理食塩水の点滴,タガメット,オイグルコン錠(グリベンクラミド)の投与を行ったのみで,治療方針を変更せず,不適切な治療を継続し,インスリンの投与を行わなかった。本件患犬は,同月28日の夜以降,幾度となく嘔吐し,虚脱状態であったことから,この時点で糖尿病性ケトアシドーシスと判断すべきであり,インスリンによる緊急治療が必要であった。
被告Aはこのことに気づかず,病状を軽視したのである。
b 被告Aは,高血糖であれば血液検査を頻繁に行うべきところ,平成14年12月29日以外は1日1回しか行っておらず,また,糖尿病の悪化に伴って増加するケトン体を調べるために頻繁に尿検査を行うべきであったのに,尿検査も怠った。さらに,オイグルコン錠は,人間用の経口薬で,重症ケトーシス,糖尿病性昏睡又は前昏睡,インスリン型糖尿病,重症な肝機能障害の患者に対しては禁忌薬であり(甲B1),高血糖治療として経口血糖下降剤は効果がないとされており(甲B7,B9,B10),糖尿病の治療とはいえない内容である。被告Aは,同月31日から旅行へ行ったが,代診医に対する指示も不徹底であった。
さらに,被告らは,インスリン投与によるカリウム値の低下の危険性を過度に強調するが,低カリウム血症の禁忌薬であるミノファーゲンを同年12月29日以降毎日投与しており,カリウム補助剤を投与したのも平成15年1月1日午後が初めてである。
(イ) 因果関係
被告Aらが,不適切な治療を継続したため,本件患犬はケトアシドーシスが悪化して多臓器不全になり,完治不能となった。
被告Aがインスリンを投与し,オイグルコン錠を投与しなければ,本件患犬が死亡することはなかったのであり,被告Aの注意義務違反(過失,債務不履行)と本件患犬の死亡との因果関係は認められる。
(ウ) まとめ
よって,被告Aは,原告らに対し,不法行為又は本件診療契約の債務不履行に基づき,原告らに生じた損害を賠償する責任を負う。
エ 被告Bの責任
被告Bも,平成14年12月28日に本件患犬の血糖値が高く,同日夕方から翌29日朝にかけて6回の激しい嘔吐を繰り返し,虚脱状態であったことを認識し,糖尿病治療が必要であると認識したのであり,また,被告Aから同被告の旅行中の本件患犬の診療を任されたのであるから,自らの判断に基づいて獣医師として高血糖値を下げるためにインスリンを投与する等適切な治療行為をすべき義務を負っていたにもかかわらず,これを怠った過失がある。
よって,被告Bは,原告らに対し,不法行為に基づき,原告らに生じた損害を賠償する責任を負う。
オ 被告Cの責任
被告Cは,被告Aから同被告の旅行中の本件患犬の診療を任されたのであるから,自らの判断に基づいて獣医師として高血糖値を下げるためにインスリンを投与する等適切な治療行為をすべき義務を負っていたにもかかわらず,平成14年12月28日にケトン体が出ていたこと,当然ケトアシドーシスになっていることを認識せず,適切な治療を怠った過失がある。
よって,被告Cは,原告らに対し,不法行為に基づき,原告らに生じた損害を賠償する責任を負う。
(被告らの主張)
ア 犬の糖尿病について
(ア) 犬の糖尿病の治療について
これまで犬の糖尿病は,食事療法,運動療法や経口血糖降下剤が効かない,人間でいうところのⅠ型(インスリン依存型)糖尿病であるかのような誤解があったが,近年の研究により,犬の糖尿病は,運動不足や肥満が原因の,人間でいうところのⅡ型(インスリン非依存型)糖尿病であることがわかってきた。ただ,人間と違って早期に発見されることが少なく,病院へ来た時点では病気が進行していることが多かったため,Ⅱ型糖尿病であるにもかかわらず,もはや食事療法等での治療が手遅れになっていることが多かったのである(甲B8)。近年は,飼い主が早期に病院へ連れて行くことが多くなり,食事療法や運動療法が奏功するケースも認められるようになってきた。軽度のⅡ型糖尿病には,インスリンではなく,SU剤(グリベンクラミド=オイグルコン)が第1選択薬とされている(甲B8)。
(イ) 糖尿病性ケトアシドーシスの治療について
小動物は,人間と違って,わずかなことで急変することがあり,治療が困難である。糖尿病性ケトアシドーシスの致死率は低くなく,その原因の代表の一つが低カリウム血症であり,積極的な治療による併発症の代表例が低カリウム血症による心停止である(甲B7)。そして,低カリウム血症の原因として,インスリン療法が医原性のものとして挙げられ(甲B9,乙B1),治療前から既にカリウムが低下している場合にはまずカリウム補正が非常に必要となる(甲B9)。カリウムの補正は,患畜の全身のバランスを考え,ゆっくり行うのが原則である。
また,オイグルコンが重症ケトアシドーシスで禁忌なのは,インスリンを使うべきだからであって,ケトアシドーシスにオイグルコンを使用することで障害が生じるわけではない。
イ 被告病院における治療について
(ア) 被告病院ではインスリンの投与は確かにしなかったが,それは医学的判断に基づくものである。
被告病院では,血糖値が高い場合,まずは食事療法,輸液療法,バナジウムウォーター(血糖を下げる水)で治療をしながら様子をみている。このような治療にて,糖尿病に特徴的な多飲,多尿,疲れやすさという症状は半減し,血糖値も下がる傾向にある。
インスリンは,前記のように,低カリウム等全身状態に問題があると心臓に負担を来し死亡する場合もあるので簡単には使用できないし,一旦使用すると継続して使用する必要があるため,飼い主にとっても投薬で治療する方が負担が少ない。インスリンの投与には血中のインスリンの量を測る必要があるが,その場では測れず,本件では年末年始で検査機関も休みで早急に測定することは不可能だった。
(イ) 本件患犬は,被告病院来院の前日である平成14年12月27日まで異常は認められておらず,来院時も活動の低下は認めていないし,糖尿病の特徴的症状も出ていなかった。血糖値は,それにより急死するような 値ではなかった。
他方,血液生化学検査でカリウムの低下があった。カリウムの低下はそれだけでも心不全の危険があるので,糖尿病の症状がまだひどくない段階で,インスリンの投与は心不全の危険があり,その危険を上回る有用性が認められなかったため,行わなかった。
平成15年1月1日まで,血糖値は相対的に低下していき,本件患犬の活動性も保たれていたが,食欲不振や嘔吐は治まらず,インスリンの投与も視野に入れて同日からカリウム製剤の投与を追加した。翌2日にカリウムの上昇を認めており,全身状態や血糖値・カリウム値を考慮して治療を継続するつもりであった。
ウ 被告A不在中の治療等について
被告Aが平成15年元旦から不在となることは被告病院入院時に原告らに伝えてあった。被告病院には当時院長の被告A夫妻(いずれも獣医師)以外に7人の獣医師が勤務しており,被告Bを含む4人は被告病院の上に住んでいたので,本件患犬の治療は被告Aが不在でも,年末年始でも問題なくできる態勢であった。被告Bは既に4年の経験があり,大学における研究により,動物の栄養学については被告Aよりも詳しかった。
被告病院で投与されたヒルズw/dは肥満予防・糖尿病・高脂血症の処方食であり,体重により投与量が決まっており,被告病院ではそれに従って投与されていた。
エ まとめ
したがって,被告らには何ら注意義務違反はない。
(2) 原告らの損害及び損害額
(原告らの主張)
ア 逸失利益 30万円
本件患犬は,血統書付きの血筋のよい犬で(甲C2,C3),幼少のころから日本スピッツ協会から数多くの賞を受賞し(甲C4),感謝状ももらっており(甲C5からC7まで),平成9年10月5日には同協会のチャンピオンに輝き(甲C8),同日同協会から種犬認定を受けた(甲C9),非常に優秀な犬である。
死亡当時9歳であり,まだ繁殖可能な年齢であり,財産的価値としては,少なくとも30万円と評価するのが妥当である。
イ 治療費 13万3830円
(ア) 被告病院での治療は意味をなさなかったので,入院費・治療費7万5240円は返還されるべきである。
(イ) 被告病院の医療行為が不適切であったため,Eで治療せざるを得なくなり,書類作成代2000円を含め,5万8590円支出した(甲C1)。
ウ 葬儀費用 5万5500円
原告らは,本件患犬の葬儀費用として,5万5500円を支出した。
エ 小計
以上を合計すると,原告らの被った損害額は48万9330円となり,原告らは本件患犬について2分の1ずつ持分を有するから,各原告の損害額は,24万4665円となる。
オ 慰謝料 各175万円
原告らは,本件患犬を我が子同然それ以上に溺愛し,飼育してきたにもかかわらず(甲C13),被告らの悪質な医療ミスにより愛犬を失い,計り知れない精神的苦痛を味わった。また,平成15年1月19日に被告Aに本件の経緯について説明を求めた際,被告Aは被告病院診察室にて開き直り,逆切れして原告Aの襟首をつかまんと威嚇し,いすを床に強くたたきつけるという暴行行為に出るなどし,原告らは多大な恐怖と精神的苦痛を受けた(甲A7)。原告Bは本件以降パニック障害となり,本件訴訟の提訴後の被告らの居直りや嫌がらせにより,パニック障害が進行してさらなる身体の変調を来し,現在も通院治療中である(甲C11)。その慰謝料額は,各175万円が相当である。
カ 弁護士費用 各19万9466円
本件訴訟遂行を弁護士に委任せざるを得なくなった。弁護士費用としては前記請求額の1割である39万8933円が相当であり,原告らはそれぞれ19万9466円(1円未満切捨て)を負担した。
キ まとめ
よって,原告らは,被告Aに対しては不法行為又は本件診療契約の債務不履行に基づいて,被告B及び被告Cに対しては不法行為に基づいて,連帯して,各219万4131円及びこれに対する本件訴状送達の日の翌日(被告A及び被告Bについては平成15年8月4日,被告Cについては同月3日)から各支払済みまで民法所定の年5分の割合による遅延損害金の支払を求める。
(被告らの主張)
原告らの主張は争う。
なお,原告らの主張によれば,本件患犬は9歳11か月30日の年齢であり,これは人間でいえば50代後半から60歳に当たるので,繁殖可能とはいえない。
第3 争点に対する判断
1 争点(1)(被告らが本件患犬にインスリンを投与しなかったことに注意義務違反があるか)について
(1) 犬の糖尿病について
ア 証拠(甲B3,B5からB12まで,B25)によれば,犬の糖尿病については,獣医療において,一般に,以下のように理解されているものと認められる。犬の糖尿病は,ヒトの糖尿病と大きく異なるところはなく,膵臓ランゲルハンス島のβ細胞からのインスリンの分泌が絶対的又は相対的に不足するか,あるいは末梢でのインスリンの作用が損なわれることにより起こる代謝性疾患である。
ヒトの糖尿病も,犬の糖尿病も,インスリンを体外から補充しないと生存できないインスリン依存型と体内にあるインスリン(内因性インスリン)だけでも生存が可能なインスリン非依存型に分類され,従来,インスリン依存型糖尿病はⅠ型糖尿病,インスリン非依存型糖尿病はⅡ型糖尿病という分類と同一のものと考えられてきた。しかし,近年この考え方については議論があり,平成11年に日本糖尿病学会が発表した病因を基準としたヒトの糖尿病の新しい分類では,膵β細胞が破壊され,通常インスリンの絶対的不足へ進行するものを1型糖尿病とし,2型糖尿病にはインスリン抵抗性を示すものとインスリン分泌不全を示すものとがあるとし,さらにその他の特定の機序・疾患によるものがあるとしている。そして,1型糖尿病でも初期の段階ではインスリン補充を必要としないケースがあり,2型糖尿病でもインスリン補充が必要となるケースもあるので,1型糖尿病の中にもインスリン依存型糖尿病とインスリン非依存型糖尿病が存在することになるとされている。
もっとも,犬の糖尿病については,発症機序には不明な点が多く,ヒトのように分類が明確にされていないが,犬の糖尿病は病状が進行した状態で発見されることがほとんどであるため,病状としては,大部分がインスリンを必要とするインスリン依存型糖尿病であるとされている。
イ そして,証拠(アで掲げた各証拠及び認定事実の後に掲げる証拠)によれば,犬の糖尿病の診断や治療は次のように行うものとされていることが認められる。
(ア) 臨床症状
多尿,多飲,多食,体重減少のほか,軽度の脱水,脂肪肝による肝腫大
(ALP,GOT等の上昇)等の肝疾患がみられることがあり,場合によっては白内障も起こる。
(イ) 診断
空腹時の高血糖値が持続することで判断されるのが通常である。
空腹時血糖値の正常範囲は,文献では50又は60〜100とされており(甲B3,B6),F動物病院では75〜117,被告病院では79〜131又は50〜124とされていた(甲A1,A3,乙A1−4から1−6まで)。そして,糖尿病とされるのは,文献によって多少異なるが,空腹時血糖値が130又は150を超える場合(食後血糖値が200を超えることを指標の一つに挙げる文献もある(甲B8)。)であり,180程度を超えると糖尿病の臨床症状が出現し始める。
(ウ) 治療
a 食事療法
適切な食事療法は,全ての犬で行われる必要があり,肥満をなくし,食後の血糖の変化を最小限にするため,食物を与える時間とカロリー量の一貫性を維持し,繊維を豊富に含む食物を与える。インスリン要求量を下げる効果もある。
b 運動療法
運動は,体重を減らすのを補助し,肥満によるインスリン耐性を除くことで,グルコース制御を維持するとともに,主にインスリンの投与部位からのインスリン動員を促進することによってグルコースを減らす役目があり,犬の場合,適切な運動はインスリン要求量を減らすことができる。
c インスリンの投与
糖尿病と診断される場合,体重コントロール,適切な食事管理,適切な運動に加え,大部分の例でインスリンの投与が必要となる。留置カテーテルによる持続点滴が可能な施設では,低血糖等の副作用に対処しやすいことから,比較的早い時期にインスリンの投与を開始するようであるが,初診時に血糖値が300台であれば,インスリンを投与するとは限らないとの意見がある(甲B25)。
インスリンには,速効型,中間型,遅効型の3種類があり,症状や環境によって使い分ける(中間型が選択されることが多い。)。多くは,短期間の入院の後,獣医師の指示に従って飼い主が毎日注射(皮下注射)することになる。過剰投与や食事を与えずにインスリンを投与したり激しい運動をしたりした場合に低血糖が生じる場合があり,日常生活上の管理が必要である。
d 経口血糖降下剤の投与
グリベンクラミド(オイグルコン)などのスルフォニル尿素剤は,ヒトの糖尿病に対して使用されるものであるが,インスリン分泌を促進する経口血糖降下剤であり,これが効果的に作用するにはまだ膵臓β細胞のインスリン分泌能力が残存していなければならない。
犬の糖尿病にも,投与するインスリンの量を減らすためにヒトに対して使用するスルフォニル尿素剤が併用されることはある(甲B5,B8)が,犬の糖尿病の場合は,ヒトの糖尿病と異なり,糖尿病と診断された時点では,大多数はβ細胞が既に破壊され,インスリンの分泌が極端に少なくなった状態になっていることから,その効果は余り期待できない(甲B5,B7,B8,B10,B11,B25)。
また,犬に対するスルフォニル尿素剤の毒性は明らかでなく(甲B9),病状を悪化させる危険性を指摘する意見もある(甲B9,B25)。特に,グリベンクラミド(オイグルコン)は,ヒトに投与される場合,効能・効果として,インスリン非依存型糖尿病(ただし,食事療法・運動療法のみで十分な効果が得られない場合に限る。)とされており,重症ケトーシス,糖尿病性昏睡又は前昏睡,インスリン依存型糖尿病の患者,重篤な肝機能障害又は腎機能障害のある患者,下痢,嘔吐等の胃腸障害のある患者等は禁忌とされている(甲B1,B4,B13,B14,B17)のであるから,インスリン依存型糖尿病が大部分である犬に対する投与については,その効能・効果の点からも,また危険性の点からも十分な注意が必要である。
(2) 犬の糖尿病性ケトアシドーシスについて
証拠(甲B3,B6からB9まで,B11,B12,B25,乙B1)によれば,犬の糖尿病性ケトアシドーシスについては,獣医療において,一般に,次のように理解されているものと認められる。
相対的又は絶対的にインスリンが不足すると,ブドウ糖を栄養素としてうまく処理できなくなるため,他の栄養素である脂肪の分解が増加し,血漿遊離脂肪酸の利用が増加して,ケトン体の産出を促進する。ケトン体が血液に蓄積し続けると,血液が酸性になる代謝性アシドーシスが進行し,臓器を障害するようになり,脳の機能を抑制して昏睡状態になることもある。
このように,糖尿病が進行すると,血中にケトン体が増加し,代謝性アシドーシスになる病態が糖尿病性ケトアシドーシスであり,最もよく起こる重大な糖尿病の続発症であるが,その診断や治療は次のように行う。
ア 臨床症状
前記糖尿病の臨床症状に加え,沈うつ,食欲不振,嘔吐,下痢が現れるほか,昏睡状態に陥ることもあり,重度の糖尿病性ケトアシドーシスでは生命に危険が生じる。犬の一部には多飲,多尿,嘔吐,虚弱及び沈うつが急激に出現する場合がある。
多くの場合は,多飲,多尿等の糖尿病の典型的症状が現れていたはずであるが,通常は,1,2日又は1週間という短い期間に急に体の具合が悪くなったようにみえるとの指摘がなされており,一旦糖尿病性ケトアシドーシスが進行し始めると,急速に症状が悪化することが多い。
イ 診断
持続性の空腹時高血糖,尿糖及びケトン尿が確認されれば糖尿病性ケトアシドーシスであると確定診断できる。
ウ 治療
糖尿病性ケトアシドーシス,特にケトアシドーシス性昏睡が起こっている症例は,積極的な緊急治療が必要であり,管理が不適切であれば致死率が高い複雑な疾病である。そして,治療による併発症の危険を最小限にし,治療に対する成功の機会を得るために,全ての異常な所見を36〜48時間かけて徐々に正常に戻し,患犬の肉体的精神的状態を何度も(少なくとも1日3,4回)評価し,時間を追って生化学検査をする必要がある。
治療目標としては,脱水及び電解質の欠乏の補正,アシドーシスの補正,適切な量のインスリンの供給(高血糖を徐々に改善し,ケトン体の生成を停止させる),インスリン療法中に必要になる炭水化物の供給などが挙げられ,具体的には以下の治療が必要である。
(ア) 輸液療法
体液の損失を補い,正常な体液平衡を維持することは,適切な心拍出量,血圧,全組織への血液の灌流を保証するのに重要であり,特に腎臓への血流を改善することが不可欠である。また,輸液によって,脱水が改善されるだけでなく,糸球体ろ過量及び尿量が増加することによりグルコースの排泄が増加し,血漿中グルコース濃度が低下するという効果もある。
治療していない糖尿病性ケトアシドーシスの犬では,血清中カリウム及びリン濃度が低下又は上昇していることがあり,インスリンの投与を開始すると,カリウムとリンが血中から減少し,低カリウム血症及び低リン血症(前進的な筋力低下,食欲不振,嘔吐及び腹部膨満を伴う胃腸間の運動停止,呼吸不全,不整脈,心停止等)が生じる危険があることから,カリウム及びリン酸を添加する必要がある。
(イ) インスリン療法
糖尿病性ケトアシドーシスには速効型のインスリン(レギュラーインスリン)が推奨され,特に,沈うつ,脱水,食欲不振,嘔吐がみられる症例の初期治療には,速効型インスリンが使用される。食欲が良好で,状態が悪くない場合には,最初は中間型又は長期間作用型のインスリンで治療することも可能である。なお,インスリン投与法については,間欠的な筋肉内注射,持続的な低用量点滴静脈内注射,初期は筋肉内注射でその後間欠的皮下注射があるが,どの投与法も血糖とケトン体の濃度を下げるのに効果的である。
なお,被告らは,インスリン療法を行うに当たっては,血中インスリン濃度の測定が必要であると主張するが,インスリンの投与量の決定・調整をするには,血糖値,尿糖,ケトン尿を測定することで足り,必ずしも血中インスリン濃度の測定は必要ではないと解される(甲B7からB9,B11,B12,B25)。
(ウ) 重炭酸塩療法
血漿重炭酸塩濃度や静脈総CO2濃度,臨床症状をみて,血中phの改善のために重炭酸塩(重炭酸ナトリウム)の補給が必要かどうか判断する。重炭酸塩を急速に又は過剰に投与すると,頭蓋内出血,代謝性アルカローシス,低カリウム血症等が生じる危険があるから,血漿重炭酸塩濃度や静脈総CO2濃度が不明の場合には,動物がかなり重篤でない限りは投与しないか,1回だけ投与する。
(エ) 動物の監視
最初は血糖の測定を1,2時間ごとに行うほか,水和状態,呼吸,脈拍を2から4時間ごとに評価し,それに従って輸液を調節する。血清電解質と静脈CO2濃度については6から12時間ごとに評価し,それにしたがって輸液と重炭酸塩療法を調節する。また排尿量,糖尿,ケトン尿を2時間ごとに評価し,それに従って輸液を調節し,体重,体温,血圧等を毎日評価するなど,犬の状態の継続的な監視が必要である。
(3) 本件患犬の状態及び被告病院等における処置について
ア 平成14年12月28日
同日朝,本件患犬は嘔吐し,少し元気がない様子であった(甲A8,C14,原告A本人)ので,原告らは,伊豆下田へ旅行に行く途中,午前10時ころ,熱海でF動物病院に立ち寄って,本件患犬の治療を受けたが,同病院では,血液検査の結果,血糖値(F動物病院で正常範囲としているのは75〜117)が338,GOT(同病院で正常範囲としているのは41未満)が60,GPT(同病院で正常範囲としているのは123未満)が201,ALP(同病院での正常範囲は132未満)が2900,カリウム(同病院で正常範囲としているのは4.4〜5.4)が3.0を示し,同病院の医師から,自分であればすぐインスリンを投与する状態であり,かかりつけの獣医師にインスリンを投与してもらうようにと言われた(診療経過一覧表,甲A1(枝番を含む。以下,枝番のある書証については,特に枝番を示さない限り,全ての枝番を含む。),A8,C14,原告A本人)。
そこで,原告らは,すぐに東京に引き返して本件患犬を被告病院に連れて行き,被告A及び被告Bの診察を受けて,午後1時ころ検査したところ,血糖値(被告病院で正常範囲としているのは50〜124)が365であり,原告らが旅行を続けられないかと質問したが被告Aから旅行の中止を勧められた(診療経過一覧表,甲A3,A4,A8,乙A1,被告A本人)。被告病院では,タウリン(強肝剤),バナジウムウォーター,ヒルズw/d(低カロリー高繊維食)が処方され,尿検査をするから,帰宅後に尿を持参するように言われ,原告らは,本件患犬を連れて帰宅した(診療経過一覧表,甲A4,A8,C14,乙A1)。その際,本件患犬の活動性は保たれていた(甲A8,C14,被告A各本人)。
同日午後4時ころ,原告らが本件患犬の尿を持参して被告病院に再来院したところ,被告Bが尿検査を担当したが,その結果は,尿糖がプラス4,ケトン体がプラス3(正常値はいずれも0である(甲B9)。)であった(診療経過一覧表,甲A3,A8,C14,乙A1,A5,被告B本人。尿検査の結果は,すぐに被告Bから被告Aに伝えられた(乙A4,被告A本人)。)。その後,本件患犬は午後6時半までは食欲はなかったが,午後6時半にビルズw/d及びタウリンを与えたところ,食欲は比較的あった(診療経過一覧表,甲A8,C14,原告A本人)。しかし,午後8時の時点で嘔吐が始まり,翌朝までに6回嘔吐し,意識はあったが,ぐったり寝たきりの状態であった(診療経過一覧表,A4,A8,A13,C14,乙A1,A4,原告A・被告A各本人)。
イ 同月29日
原告らは,本件患犬を被告病院に連れて行ったところ,被告A及び被告Bが担当し,午前9時30分の時点では,血糖値が398,白血球(被告病院で正常範囲としているのは60〜140)が318,GOT(被告病院で正常範囲としているのは9〜69)が73,GPT(被告病院で正常範囲としているのは13〜53)が152,ALP(被告病院で正常範囲としているのは142未満)が3000以上,カリウム(被告病院で正常範囲としているのは3.4〜5.2)が2.7であり,被告病院に入院することになった(診療経過一覧表,甲A3,A6,乙A1,A4,原告A・被告A・被告B各本人)。この際,本件患犬は,少しぐったりしていたが,活動性は認められた(甲A8,C14,被告A本人)。
午後4時50分にビルズw/dを与えた後,午後6時10分の時点での血糖値は559,同月30日午前0時の時点での血糖値は509であった(診療経過一覧表,甲A3,A6,乙A1。被告Aは,この結果を同月30日の朝に聞いた(乙A4)。)。
また,同月29日にはソルラクトS500サブビタンが点滴され,ミノファーゲンC及びセファゾリンナトリウムが投与された(診療経過一覧表,甲A4,乙A1)。
ウ 同月30日
午前8時50分の血糖値は446であり,活動性はあったが,嘔吐があった(診療経過一覧表,甲A6,A8,乙A1)。ソルラクトS500サブビタンが点滴され,ミノファーゲンC及びセファゾリンナトリウムが投与された(甲A6,乙A1)。
午後0時15分にはオイグルコン1錠が経口投与された(甲A6,乙A1)。
午後6時30分の血糖値は503であった(診療経過一覧表,甲A6,乙A1)。
午後6時50分にはオイグルコン1錠及びタガメット1錠が経口投与された(甲A6,乙A1)。
エ 同月31日
同日の本件患犬の状態は,排尿・排便はあり,活動性はあったが,食欲がなく,嘔吐があった。
血液検査の結果は,赤血球(正常範囲は650〜850)が479,ヘマトクリット値(正常範囲は45±7)は32.5,血糖値が442,GOTが132,GPTが40,ビリルビン(正常範囲は0.3〜0.9)が1.3,カリウムが2.3であった(診療経過一覧表,甲A6,乙A1)。
同日には,オイグルコン1錠及びタガメット1錠が2回経口投与され,ソルラクトS500サブビタン(ソルビトール乳酸リンゲル液(乙B2))が点滴され,ミノファーゲンC(強肝剤)及びセファゾリンナトリウムが投与された(診療経過一覧表,甲A6,乙A1)。
オ 平成15年1月1日
午前10時40分の血液検査の結果は,赤血球が379,ヘマトクリット値が25.4,血糖値が469,GOTが87,GPTが28,ビリルビンが1.4,カリウムが2.2,ALPが3000以上であった(診療経過一覧表,甲A6,乙A1)。
同日の本件患犬の状態は,排尿・排便があり,活動性はあり,午前中には食欲があったものの,午後は食欲がなく,また,午後0時30分には嘔吐もあった(診療経過一覧表,甲A6,乙A1)。
同日には,オイグルコン1錠及びタガメット1錠が2回経口投与され,ソルラクトS250サブビタンが点滴され,ミノファーゲンC及びセファゾリンナトリウムのほか,ビタミンB12が投与され,午後からアスパラK(カリウム補助剤)が2回投与された(診療経過一覧表,甲A6,乙A1)。
カ 同月2日
本件患犬の状態は,尿はあったが,食欲がなく,嘔吐もあり,活動性の低下がみられた(診療経過一覧表,甲A6,乙A1,A5,被告B本人)。血液検査の結果,赤血球が372,ヘマトクリット値が25.4,血糖値が436,GOTが109,GPTが20,ビリルビンが2.2,カリウムが2.4,ALPが3000以上であった(診療経過一覧表,甲A6,乙A1)。
同日には,オイグルコン1錠,タガメット1錠及びアスパラKが2回投与され,ソルラクトS250サブビタンが点滴され,ミノファーゲンC,セファゾリンナトリウム及びビタミンB12が投与された(診療経過一覧表,甲A6,乙A1)。
しかし,同日午後,原告らの希望によって,E動物病院へ転院することになり,午後6時ころに原告らが本件患犬を引き取りに行ったところ,本件患犬は原告らの呼び掛けにも反応せず,ぐったりした状態(起立不能)であり,午後7時30分ころにEに到着したときも,同様の状態であり,意識レベルも低下していた(診療経過一覧表,甲A7,A8,B2,C14)。E動物病院では,糖尿病性ケトアシドーシス及び重度の肝障害であると判断されたため,重炭酸塩(重炭酸ナトリウム)の単発投与のほか,点滴,インスリン,強肝剤,抗生物質の投与が継続された(甲A7,B2,証人G)。
キ 同月3日
本件患犬の状態は,夜間は呼吸様式は浅促であったが,落ち着いており,顔つきもはっきりし,呼び掛けに対して反応するようになったほか,意識的な排尿・排便が確認され,朝の血液検査時には血糖値の低下がみられた。しかし,同日夜になって,呼吸様式の悪化があり,マスクによる酸素吸入,気管挿管等を施したが,同日午後10時20分に死亡した。(甲B2)
死因としては,G証人作成の臨床経過報告書(甲B2)において,直接の死因は確定できないが,高血糖状態及び肝機能障害の持続が考えられるとしているが,肝機能障害の原因としては糖尿病・糖尿病性ケトアシドーシスが考えられ(甲B3,B6,B8,B9,B11),また,前記のような本件患犬の状態に照らすと,本件患犬が肝機能障害のみで死亡に至る状況であったとは考えにくく,本件患犬の死亡は糖尿病及びそれに続発する糖尿病性ケトアシドーシスが進行したことによるものと解するのが合理的である(甲B7,被告A本人)から,糖尿病性ケトアシドーシスが進行したことによって本件患犬は死亡したものと認められる。
(4) 被告らの注意義務について
ア 前記の本件患犬の状態に照らすと,平成14年12月28日の時点で,300を超える高血糖が認められており,糖尿病であったことが認められるので,同日時点で食事療法や運動療法とともに,インスリンを投与するという治療方法をとることが検討されるべきである(証人G。被告病院においては,留置カテーテルによる持続点滴が可能であり(被告A本人),比較的早期にインスリン投与を開始することが可能であった。)が,血糖値が300台でとどまっていたこと,インスリン投与による低血糖等の副作用の危険性があること,同日時点では活動性は保たれていたと認められることを考えると,インスリンを投与せず,高繊維の処方食(ビルズw/d)等を与える食事療法や運動療法によって,ひとまず血糖値の推移や臨床症状の様子をみることも,治療方法の一つとして認められるものと解される(甲B25)。
もっとも,平成14年12月28日午後4時の時点で,尿糖がプラス4,ケトン体がプラス3であり(正常値はいずれも0であり(甲B9),相当の異常値である(証人G)。),以後もケトン体が蓄積すると考えられる(被告A本人)し,血糖値については,同日午前10時ころは338,午後1時ころは365であったものの,同月29日午前9時30分は398,午後6時10分は559(この数値については,午後4時50分にビルズw/dが投与されていることから,空腹時血糖値ではない可能性がある。),翌30日午前0時は509であり,同月29日には血糖値の低下が期待できる輸液が行われていることも考慮すると,同月29日には血糖値の上昇がみられ,持続的な空腹時高血糖があると解され,同月29日の段階では,本件患犬は既に糖尿病性ケトアシドーシスを発症していたものと認められる。
なお,同月28日早朝及び同日夜から翌29日朝にかけて6回嘔吐があったことについて,嘔吐の原因としては糖尿病性ケトアシドーシス以外にも考えられるところである(甲B3)が,本件患犬には,尿糖が認められ,血糖値も高値で推移している(特に,同月29日夜には血糖値は500を超える高値を示している。)ほか,ケトン体が認められており,食物も余り食べてないにもかかわらず,嘔吐の回数も頻繁で,断続的であることからすると,嘔吐の原因が胃腸病等の他の疾患であるとは考え難く,糖尿病性ケトアシドーシスの症状であると考えるのが最も合理的であり,同月29日の段階でも嘔吐の原因は糖尿病性ケトアシドーシスであると判断可能であったと解される。
そして,糖尿病性ケトアシドーシスは,発症すると病状の進行が急速であり,その治療は急を要するものである(甲B3,B6,B7,B9,B11)ところ,本件においては,前記のとおり,嘔吐が頻繁にみられる状況になっており,早急に治療が必要であったと認められる。
そして,被告A及び被告Bは,平成14年12月28日,29日の本件患犬の治療にかかわっており,本件患犬の状態を把握していた(乙A4,A5,被告A・同B各本人。被告Aは,同月29日午後6時10分,同月30日午前0時の血糖値を同日朝に聞いて把握していた(乙A4)。)のであるから,同月29日,遅くとも翌30日の診察開始時には,本件患犬に対し,糖尿病性ケトアシドーシスに対する治療を開始すべき義務があったというべきである。
具体的には,被告A及び被告Bは,遅くとも同月30日の診察開始時の段階で,糖尿病に対する食事療法や運動療法を行うほか,本件患犬の状態を監視しながら,輸液療法及びインスリン療法を行い,重炭酸塩療法の実施を検討すべきであったというべきである。なお,糖尿病性ケトアシドーシスの患犬に対してインスリンを投与する場合,特に厳重な監視が必要となるところ,被告Aは平成15年1月1日から同月6日まで旅行に行く予定であったが,被告病院はO区でも有数の動物病院であり(証人G),被告A夫妻(いずれも獣医師)以外に7人の獣医師が勤務し,うち被告Bを含む4人は被告病院の上に住んでおり,年末年始に被告Aが不在の場合でも,これらの治療を行うことは人的・物的設備の面からも可能であったと認められる(乙A5,被告A・同B各本人,弁論の全趣旨)。また,被告らが主張するように,インスリンは一旦使用すると継続して使用する必要があるが,被告Aは平成11年4月から本件患犬を診察しており(前記前提事実),本件患犬の飼い主である原告らがインスリン投与の負担を厭うようなことはないことを十分に知っていたものと認められる。
しかし,被告A及び被告Bは,糖尿病・糖尿病性ケトアシドーシスの状態にある本件患犬に対し,ビルズw/d等の投与(食事療法)及び輸液療法を行ったのみで,同月29日にも,同月30日の診察開始時にもインスリンの投与を行っておらず,獣医師として,本件患犬に対して行うべき治療を行わなかった義務違反があるというべきである。
なお,輸液療法によって血漿中グルコース濃度が低下するという効果があるが,直接血糖を低下させる因子はインスリンのみであり(甲B8),糖尿病性ケトアシドーシスに対する治療として,また本件患犬の症状(血糖値,尿糖,ケトン体等)に照らし,食事療法及び輸液療法のみでは不十分というべきである。また,被告病院では,同月30日以降,スルフォニル尿素剤であるオイグルコンの投与が行われているが,前記のとおり,犬の糖尿病はインスリン依存型が大部分であること(このことは被告Aも認識している(被告A本人)。)から,スルフォニル尿素剤は余り効果が期待できず,かえって病状を悪化する危険性も指摘されているのであるから,既に嘔吐を伴う糖尿病性ケトアシドーシスを発症している本件患犬に対し,インスリンの代わりにオイグルコンを投与することが適切な治療であったと認めることはできない。
イ カリウム値について
被告らは,血液生化学検査でカリウムの低下があり,カリウムの低下はそれだけでも心不全の危険があるので,糖尿病の症状がまだひどくない段階で,インスリンの投与は心不全の危険があり,その危険を上回る有用性が認められなかったため行わなかったと主張し,被告A及び被告Bもこれに沿う供述をする(被告A・同B各本人)。
確かに,本件患犬のカリウム値は平成14年12月29日の段階で既に2.7と正常範囲(被告病院で正常範囲としているのは3.4〜5.2)を下回っており(甲A6,乙A1),インスリンの投与により,さらに低下することが予想され,低カリウム血症の症状が出る可能性があった(乙B1)。
しかし,犬の場合,血清カリウム濃度が2.5以下になるまで神経系や心血管系の障害,骨格筋の衰弱などの症状は明らかにならず(乙B1),インスリン投与によって低下が予想されるカリウム値は0.2から0.3程度である(被告A本人)し,一般的に,糖尿病性ケトアシドーシスにおいては,血清中のカリウム値が低いことがあり,その場合であっても輸液等にカリウムを添加しながらインスリンの投与を行うとされているのである(甲B7,B9,B11)から,カリウムを添加することによって対処可能であり(証人G),同月29日又は同月30日の診察開始時の段階で本件患犬にインスリンを投与しても直ちに生命に危険がある状態に陥るとは認められず(被告A本人),他方,前記のとおり,本件患犬は,同月29日には既に糖尿病性ケトアシドーシスに至っており,嘔吐が頻繁にみられるような状態であり,放置しているとケトン体の蓄積が進んで生命に危険が及びかねないことから,緊急な治療が必要な状態であった。
したがって,同月29日又は同月30日の診察開始時の段階でインスリンを投与することによる危険性がその有用性を上回り,インスリン投与を躊躇すべきような状態であったとは認められない。
さらに,被告病院においては,カリウム値について,同月29日午前9時30分の検査時に測定して以降,同月31日の血液検査まで測定しておらず,低カリウム血症を悪化させるおそれがあるミノファーゲンC(甲B18,B19)の投与を継続しているし,平成15年1月1日午後になるまでアスパラK(カリウム補助剤)を投与しなかったことも合わせ考えると,被告A及び被告Bが同月29日又は同月30日の診察開始時の段階でカリウム値を重視したためにインスリンの投与を控えたとは認め難い。
ウ 以上のとおりであるから,被告A及び被告Bには,遅くとも同月30日の診察開始時の段階で行うべきインスリンの投与をしなかった過失があるものと認められる。
(5) 因果関係について
そこで,遅くとも平成14年12月30日の診察開始時の段階でインスリンの投与がなされていた場合に本件患犬の死亡が避けられたかどうか,相当因果関係の有無が次に問題となる。
この点,ケトアシドーシス性糖尿病は,未だ代謝治療上極めて困難なものの一つであり,重度の糖尿病性ケトアシドーシスの犬や猫のうち,約30パーセントが死亡するか,最初の入院中に安楽死させることになるとする文献もある(甲B7)。そして,本件患犬の状態については,平成14年12月28日時点で既に嘔吐がみられ,高血糖,尿糖,ケトン尿が認められており,翌29日にかけて頻繁に嘔吐を繰り返し,同日には血糖値も上昇し,既に糖尿病性ケトアシドーシスの状態となっていたと認められ,現実にも同月30日以降も嘔吐が続き,輸液等によっても症状は改善せず,平成15年1月2日の夜以降,Eでインスリン投与等がなされてたにもかかわらず,翌3日午後10時20分に死亡するに至ったという経緯に照らすと,平成14年12月30日の診察開始時における本件患犬の糖尿病・糖尿病性ケトアシドーシスの症状は相当程度進行していた可能性がある。
しかし,注意深く監視しながら,きめ細かい治療を行えば,糖尿病や糖尿病性ケトアシドーシスに対する治療効果を上げることが可能であるとされており(甲B7,B9,B11),治療開始が早ければ早いほど救命可能性が高くなると考えられるところ,平成14年12月27日以前の段階では本件患犬に何ら臨床症状が認められておらず(原告A本人),前記のとおり,平成15年1月1日までは活動性がある程度維持されており,翌2日夜からのEでのインスリン投与等によって一時的な状態の改善がみられたのであるから,遅くとも平成14年12月30日の診察開始時に本件患犬に対するインスリン投与が開始され,糖尿病・糖尿病性ケトアシドーシスに対する積極的かつきめ細かな治療が開始されていれば,その後継続的なインスリンの投与が必要にはなるが,少なくとも糖尿病性ケトアシドーシスの急速な進行による本件患犬の死亡は避けられたものと認められる。
(6) 被告A及び被告Bの責任
したがって,被告A及び被告Bには前記過失による不法行為(共同不法行為。以下「本件不法行為」という。)が成立し,連帯して,本件不法行為によって原告らに生じた損害を賠償する責任がある。
(7) 被告Cの責任
被告Cについては,平成15年1月2日に本件患犬の治療に携わったことが認められるが,それ以前に本件患犬の治療に関わったと認めるに足りる証拠はなく,同日の治療も,それまで本件患犬の治療を担当してきた被告Bと一緒に治療を行ったものである(診療経過一覧表,乙A4,A5,被告A・同B各本人)。
したがって,被告Cが,同日の時点で,自らの判断で直ちにインスリンを投与しなかったことに過失があるとまでは認められないし,前記のとおり,平成15年1月2日夜にはEにおいてインスリンの投与が開始されたが,本件患犬の死亡は避けられなかったのであるから,仮に被告Cが同日のもう少し早い時点でインスリンを投与したとしても,本件患犬の死亡という結果は避けられなかった可能性が高いものと認められる。
したがって,被告Cに不法行為責任があると認めることはできない。
2 争点(2)(原告らの損害及び損害額)について
前記のとおり,被告A及び被告Bは,連帯して,本件不法行為によって原告らに生じた損害を賠償する責任を負う。
(1) 逸失利益
原告らは本件患犬の死亡による逸失利益の賠償を請求しており,確かに,本件患犬は血統書付きの犬で(甲C2,C3,C18,C22),多数の表彰等を受けたことがあり(甲C4からC8まで),平成9年10月5日には日本スピッツ協会から種犬認定を受けており(甲C9),繁殖可能な年齢であることは認められる(甲C15,原告A本人)。
しかし,原告らは本件患犬を子供のように思って育ててきたものであり,本件患犬を売却したり繁殖させたりする意思はなかったことは明らかである(甲A8,C13,C14,C21,C37,原告A本人)から,本件患犬の交換価値を算定することは困難である(原告らは,本件患犬の取得価格等の主張はしておらず,交換価値を損害とすることは,原告らの求めるところでもないと解される。)し,繁殖させることができなくなった逸失利益が発生したと認めることもできない。
したがって,原告らの主張する逸失利益の賠償はこれを認めることはできないが,本件患犬が上記のような犬であったことは,慰謝料の算定において考慮することとする。
(2) 治療費 各4万8105円
ア 被告病院における治療費相当の損害前記のように,被告病院におけるオイグルコンの投与は適切なものとは認められず,インスリンの投与が行われていれば,必要のなくなった治療も存在するものと推認されるが,被告病院において行われた食事療法,輸液等の治療が糖尿病・糖尿病性ケトアシドーシスの治療として全く必要のないものであったともいえないので,原告らの主張する被告病院における治療費7万5240円(この金額については,被告らは争っていない。)の半額である3万7620円が被告A及び被告Bの本件不法行為によって原告らが被った損害と認めるのが相当である。
イ Eにおける治療費相当の損害
Eにおける治療費5万8590円(甲C1)は,全額被告A及び被告Bの本件不法行為によって原告らが被った損害と認められる。
ウ 各原告の損害
原告らは,ア,イの損害合計9万6210円について,それぞれその2分の1(4万8105円)ずつ損害を被ったものと認められる。
(3) 葬儀費用 各5000円
ペットが死亡した場合には死体の埋葬等に一定の費用がかかることが認められ(甲A14,C10),その費用相当の損害としては1万円と認めるのが相当であり,原告らはそれぞれその2分の1(5000円)ずつ損害を被ったものと認められる。
(4) 慰謝料 各30万円
犬をはじめとする動物は,生命を持たない動産とは異なり,個性を有し,自らの意思によって行動するという特徴があり,飼い主とのコミュニケーションを通じて飼い主にとってかけがえのない存在になることがある。原告らは,結婚10周年を機に本件患犬を飼い始め,原告Aの高松への転勤の際に居住した社宅では,犬の飼育が禁止されているところを会社側の特別の許可を得て本件患犬を飼育したほか,その後の東京への転勤の際には本件患犬の飼育環境を考えて自宅マンションを購入し,本件患犬の成長を毎日記録するなど,約10年にわたって本件患犬を自らの子供のように可愛がっていたものであって,原告らの生活において,本件患犬はかけがえのないものとなっていたことが認められる(甲A8,C11,C13,C14,C19からC24まで,C37,原告A本人)。また,原告らは,以前に飼育していた犬が病死したことから,本件患犬を老衰で看取るべく(スピッツ犬の寿命は約15年である。),定期的に健康診断を受けさせるなどしてきたにもかかわらず,約10年で本件患犬が死亡することになったものであって,本件以降,原告Bがパニック障害を発症し,治療中であること(甲C11)からみても,原告らが被った精神的苦痛が非常に大きいことが認められる。
そこで,本件患犬が前記(1)で認定したような犬であったことも合わせて斟酌すると,原告らが被った精神的損害に対する慰謝料は,それぞれ30万円と認めるのが相当である。
(5) 弁護士費用 各5万円
本件事案の内容その他諸般の事情を考慮すると,弁護士費用相当の損害としては,原告らそれぞれについて5万円と認めるのが相当である。
(6) 合計
原告らの損害額の合計は,各40万3105円となる。
第4 結論
よって,原告らの請求は,被告A及び被告Bに対し,不法行為による損害賠償請求権に基づき,連帯して,それぞれ40万3105円及びこれに対する不法行為日後の日である平成15年8月4日から各支払済みまで民法所定の年5分の割合による遅延損害金の支払を求める限度で理由があるからこれを認容し,原告らの被告A及び被告Bに対するその余の請求並びに被告Cに対する請求は理由がないからこれを棄却することとし,主文のとおり判決する。
東京地方裁判所民事第30部
裁判長裁判官 福 田 剛 久
裁判官 吉 岡 大 地
裁判官村主幸子は,転補のため署名押印することができない。
裁判長裁判官 福 田 剛 久
避妊手術を施した猫が手術の3日後に死亡したことについて、獣医師が避妊手術の際に誤って左右双方の尿管を卵巣動脈とともに結紮した過失によるものと認定して獣医師に求めた損害賠償請求が認容された事例[93万2500円を認容。うち死亡による精神的苦痛についての慰謝料は20万円](平成14・3・28宇都宮地裁)
主文
1 被告は,原告に対し,93万2500円及びこれに対する平成8年11月22日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
2 原告のその余の請求を棄却する。
3 訴訟費用は,これを2分し,その1を原告の負担とし,その余を被告の負担とする。
4 この判決は,第1項に限り,仮に執行することができる。
事実及び理由
第1 請求
被告は,原告に対し,223万5500円及びこれに対する平成8年11月22日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
第2 事案の概要
本件は,被告が避妊手術を施した猫が手術の3日後に死亡したことから,その飼い主である原告が,被告に対し,猫の死は,被告が避妊手術を行うに際して誤って左右双方の尿管を結紮した過失によるものであると主張して,債務不履行又は不法行為に基づく損害賠償を求めた事案である。
1 争いのない事実
(1) 原告は,アメリカンショートヘアー種の猫である亡アレキサンドライト・ミューズ・オブ・フエリスカートス(以下「亡ミューズ」という。)の飼い主であった者であり,被告は,住所地においてA動物病院(以下「被告病院」という。)を開設する獣医師である。
(2) 原告は,平成6年1月から被告病院に亡ミューズを受診させるようになり,平成8年11月21日(以下,月日のみの記載は平成8年を指す。),被告病院に亡ミューズの避妊手術(以下「本件手術」という。)を依頼し,同月22日,亡ミューズを連れて同病院に来院した。
亡ミューズは,当時5歳の雌猫であり,体重は4.5キログラムであった。
原告によれば,手術前の亡ミューズに異常は認められず,元気だということであったため,被告は,避妊手術の際に通常行う血液検査等の術前検査を行うことなく,本件手術を開始した。
(3) 亡ミューズは,同月23日午後7時ころ,点滴用の静脈留置を残し,アニマルネッカーを装着した状態で被告病院を退院した。
原告は,同月24日午後6時ないし7時ころ,亡ミューズを連れて被告病院を来院した。その際,被告は,亡ミューズに皮下点滴等を施すと共に,アニマルネッカーと静脈留置を取り外し,原告に対しては,避妊手術後2,3日は食べない猫もいるので心配ないこと等を説明し,食欲がなければ明日も来院するように指示した。
(4) 原告の妻が,同月25日午後3時40分ころ,亡ミューズを宇都宮市a町所在のB犬猫病院に連れていったところ,亡ミューズは既に死亡していた。
2 争点
(1) 被告が本件手術において,誤って左右の尿管を結紮したという注意義務違反ないしは過失の有無
(2) 原告の損害発生の有無と損害の内容
3 争点に関する原告の主張
(1) 争点(1)について
ア被告は,本件手術において,卵巣動脈を結紮するにあたっては,尿管を巻き込まないようにすべき注意義務があるにもかかわらず,尿管と卵巣動脈が交差する部位において,左右いずれも尿管を巻き込み,卵巣動脈と共に結紮した。
その結果,亡ミューズは,尿路障害を起こし,体外に尿を排泄することができず,尿毒症によって死亡した。
イ 被告が誤って左右の尿管を結紮した事実は,亡ミューズの死後まもなく,原告の妻からの依頼で亡ミューズを解剖したB獣医師の2度にわたる証言,解剖所見及び同獣医師が解剖時に摘出して保存した結紮部位の組織(検甲1)から明らかである。
(2) 争点(2)について
ア 財産的損害 100万円
亡ミューズは,優秀な血統を持つショーキャットであり,平成4年度の年間総合成績でアメリカンショートヘアー種日本第1位,全種でも第5位に入賞した実績を有し,今後もアルタークラスへの出陳が見込まれていたものであるから,その価格は100万円を下らない。
イ 慰謝料 100万円
亡ミューズは,原告が家族の一員として愛情をもって育ててきた伴侶動物であって,亡ミューズの死亡は,原告に,ペットロスといわれる精神的な打撃を与えたのであり,これに対する慰謝料額は100万円を下らない。
ウ 医療費等 3万2500円
原告は,被告に対し,本件手術及びその後の治療費として2万5500円を,B犬猫病院に対し,亡ミューズの解剖のための費用として7000円をそれぞれ支払ったが,これらは被告の債務不履行又は不法行為によって支出を余儀なくされたものである。
エ 弁護士費用 20万3000円
原告は,本件訴訟追行を代理人弁護士に依頼したため,その弁護士費用として,請求金額の約10パーセントにあたる20万3000円の支払が見込まれる。
オ 以上によれば,原告が被告の債務不履行又は不法行為によって被った損害額の合計は,223万5500円となる。
よって,原告は,被告に対し,債務不履行又は不法行為に基づく損害賠償として,223万5500円及びこれに対する本件医療事故の日である平成8年11月22日から支払済みまで民法所定の年5分の割合による遅延損害金の支払を求める。
4 争点に関する被告の主張
(1) 争点(1)について
ア 被告は,11月22日,本件手術を次の要領で実施した。
被告は,午後1時ころ,亡ミューズに,麻酔としてケタミンとキシラジンの筋肉注射を行い,次いで,亡ミューズを仰臥位に保定し,剃毛,消毒して尾側正中切開を,通常より大きく行った。
被告は,切開創から子宮角を引き出してつり上げ,卵巣と子宮との間の靱帯に止血鉗子をかけ,それを助手に持ち上げさせて,卵巣の近位の卵巣靱帯を絹糸で結紮し,結紮の遠位5ミリメートルのところで切断した。亡ミューズは肥満であったため,卵巣を持ち上げるのが困難で,完全には体表外に引き出せなかったが,直視下で確認しながら結紮を行った。
被告は,左右両側の卵巣を外してから両側の子宮角を引っ張って子宮体部を体表外に引き出し,子宮体と子宮角の分岐部の直ぐ下部付近に止血鉗子をかけ,止血鉗子の上部を結紮し,結紮の遠位5ミリメートルのところで切断した。その後,近位の切断面を単純連続縫合で絹糸を使用して閉じた。子宮体部についても,脂肪組織のために十分体表に出すことができなかったため,子宮体部の子宮角に近い部位,子宮体と子宮角の分岐部の直ぐ下部付近を結紮した。
被告は,卵巣及び子宮を摘出した後,出血等の異常がないことを確認して閉腹し,午後2時10分ころ,手術を終えた。
被告は,本件手術後,静脈を確保し,乳酸加リンゲルを点滴で投与し,抗生物質製剤・ステロイド剤・ビタミン剤・強肝剤を皮下注射で投与した。
亡ミューズは,術後3時間ないし4時間で覚醒し,その後はゲージの中でおとなしくしており,特に異常はなかった。
イ 本件手術中の出血については,皮膚及び腹壁を通常より大きく切開したため,切開創からのにじみ出るような出血が通常より多かったが,腹腔内の出血はなく,止血のための結紮は行っていない。
したがって,被告は,本件手術において,左右卵巣部及び子宮体部の三箇所を結紮した以外に結紮糸を用いた結紮操作を行っていない。
また,臨床獣医療において,卵巣動脈からの出血に備えて予め,左右卵巣部及び子宮体部の3か所以外に,尿管と卵巣動脈が交差する部位で卵巣動脈の結紮を行うなどという手術方法は採られておらず,被告も,本件手術において,上記3か所以外に卵巣動脈を結紮したことはない。
したがって,本件手術において,原告主張の部位で,卵巣動脈の結紮糸が尿管を巻き込むことはそもそもあり得ない。
(2) 争点(2)について
原告主張の各損害の発生及び損害額は,否認ないし不知。 原告は,いわゆるブリーダーとして,繁殖させて経済的利益をあげる目的で亡ミューズを飼育してきたものであり,繁殖を断念して避妊手術を施すこととした亡ミューズに財産的価値はないし,ペットロスとも無縁である。
また,生後かなりの期間が経過すると新たな飼い主に慣れないという猫の属性から,当時5歳であった亡ミューズに市場での交換価値はない。
第3 当裁判所の判断
1 争点(1)について
(1) 証拠(甲3,8,17,乙9,原告本人,被告本人)及び弁論の全趣旨によれば,次の事実が認められる。
亡ミューズは,手術前,特に異常は認められず,元気な状態であった。本件手術では,通常の手技のとおり,片側の子宮角,卵巣を鉤で引き上げた。ところが,左右の卵巣を体外に十分露出させることができなかった。そこで,被告は,亡ミューズの体内で,結紮操作,卵巣切除術を行った。本件手術は,午後1時30分ころ開腹し,午後2時10分ころ終了し,この間,約40ないし50分要しており,通常の所要時間が約20分程度であるのに比して約2倍の時間を要している。
本件手術後,被告は,原告の妻に対し,「皮下脂肪が多く卵巣を捜すのに手間取り,しかも靱帯が強かったので手術時間が長くなりました。」と説明している。
亡ミューズの体重は本件手術前,4.5キログラムであったが,死亡直後のB犬猫病院での解剖時は,5.6キログラムと増加していた。この間,体重増加の要因としては,被告が本件手術後退院までに約1リットルを点滴したほか,死亡の前日に,被告が約200ミリリットルの皮下点滴をしている。亡ミューズは,本件手術による退院後,原告方ではほとんど水等を飲むことがなく,食事にも手をつけなかった。排尿行動に出ることはあったが,尿はごく少量しか出なかった。
以上,本件手術前は特に異常が認められず,元気であった亡ミューズが,本件手術後は,ほとんど体外に尿を排出することなく,被告が点滴等行った水分がほぼそのまま体重の増加となって現れていることからして,本件手術により,腎臓を含めた尿の排出経路に何らかの異常が生じたと解するのが相当である。
(2) 原告は,排出経路に生じた異常は,被告が左右の卵巣動脈を結紮する際に,いずれも尿管を巻き込み,卵巣動脈とともに結紮したことが原因であると主張する。そこで,次に左右の尿管が卵巣動脈とともに結紮されたかを検討する。
ア この点に関して,亡ミューズの解剖を担当したB獣医師は,以下のように証言し
ている。
亡ミューズは,原告の妻が連れてきたが,連れてきたときには既に死亡していた。原告の妻が死亡原因を知りたいということで解剖することにした。亡ミューズの縫合糸を切り取り,開腹をすると,中には多量の腹水があった。腹水は尿臭がしたので,膀胱に異常があるのではないかと疑い,まず,膀胱を確認した。膀胱には異常がなかったので,尿管をたどり腎臓の方へ,その走行を確認していった。腸をよけながらたどっていった。走行が途中で分からなくなったので確認すると,尿管と血管が絹糸で結紮されていた。反対側も確認したところ,同様に尿管が血管と絹糸で結紮されていた。そして,結紮部位については亡ミューズの体の右側にあったものだけを切り取って,ホルマリンにつけ,保管をすることにした。それが検甲第1号証である。検甲第1号証を保管している間は施錠で
きる棚に入れておき,自分以外誰にも触らせていない。
イ また,解剖助手を務めた訴外Cは,以下のように証言している。
亡ミューズを解剖するためにB獣医師が腹筋を切ると黄色い液体がこぼれ落ちそうなくらい大量にあった。この液体は尿臭がしていた。B獣医師は膀胱を確認した後,尿管をたどっていった。そして,B獣医師がたどっているので,自分も尿管と分かったが,黒い血管と尿管が縛ってある状態なのは分かった。次にもう片方の尿管についてもB獣医師は確認していたが,これも縛ってある状態であった。その後,自分の側にある結紮部位を切り取り保存した。ホルマリンに入れて保管していた。それは施錠のできる棚に入っており,B獣医師だけが開けられる状態であった。そして,解剖した後,亡ミューズの解剖について他の者と話したことはない。
ウ そして,原告が亡ミューズから取り出した結紮部位と主張する検甲第1号証を検証した結果によれば,標本は,猫の卵巣動脈及び尿管とその周辺の脂肪組織であり,卵巣動脈を結紮した絹糸が存し,その結紮糸は,腹膜及び尿管を巻き込んでいることが認められる。
B獣医師の証言と訴外Cの証言は,細部では異なっている部分があるものの,解剖の手順,尿管の結紮箇所を見つけた経緯,摘出した結紮部位の保管方法などの証言の中核ともいえる部分で一致している。加えて,甲第17号証によれば,原告の妻が,B犬猫病院に亡ミューズを連れて行ったのは,亡ミューズが,両足を突っ張り目が開いたまま横に倒れ,手足が冷たい状態になっていたことから,被告病院に電話をしたが,連絡がつかず,近くにある病院ということでB犬猫病院に診察を受けに行ったことが認められ,B獣医師が解剖を行ったのは偶然であることも考慮すれば,B獣医師及び訴外Cの証言の信用性は高く,かかる証言により,亡ミューズの左右尿管は卵巣動脈とともに結紮されていたこと,検甲第1号証が亡ミューズの右側尿管の結紮部位であることを認定することができる。
この点,B獣医師の証言には,①卵巣動脈の結紮箇所の個数及び②尿管の結紮部位に卵巣靱帯が付着していたか否かという点について,第9回口頭弁論及び第18回口頭弁論との間で,食い違いとも思われる部分がある。しかしながら,①については,卵巣を切除する際以外に卵巣動脈を結紮する場合を聞かれていると誤解し,かかる証言をした旨の一応首肯できる理由を述べており,②については,卵巣靱帯は半透明で薄くて弱いものであり,結紮の仕方によれば切れる場合もあることから,確認できないという趣旨で述べた旨の合理的な理由を述べており,したがって,①②によっても,証言の信用性が減殺されることはない。
(3) 以上,本件手術により亡ミューズには腎臓を含めた尿の排出経路に何らかの異常が生じたと解するのが相当なこと,亡ミューズを死亡直後に解剖した際に左右の尿管が結紮されていたことが発見されたこと及び検甲第1号証の存在から,亡ミューズの死亡は,本件手術の際,被告が誤って左右の尿管を卵巣動脈とともに結紮したことにより生じたと解するのが相当である。
(4) この点,被告は,①子宮角,卵巣を鉤で引き上げる操作に際しては,卵巣は卵巣靱帯で支持されているものの,腹腔内で遊離した状態で腹部切開創から比較的浅い部位に存在しており,他方,尿管は背筋に接して後腹膜下を走行しており,腹部切開創から最も奥の底部に存在しているのであるから,後腹膜下を走行する尿管が鉤で引っ掛けられて子宮角,卵巣と一緒に引き上げられることはなく,卵巣を切除する際の結紮により,尿管が卵巣動脈とともに結紮されることはない,②結紮された卵巣動脈(および一緒に結紮された組織)は,一体として切断されるのであり,尿管が広間膜と一緒に結紮されている場合には,尿管は卵巣動脈と一緒に結紮され,広間膜を切断する操作により尿管も切断され,尿管及び卵巣動脈は切断された状態で腹腔内に残るはずであるところ,B獣医師は,結紮部位摘出の際に,結紮部位に近いところで尿管2か所と卵巣動脈2か所を切断したと証言しており,これは前述の尿管が卵巣動脈とともに結紮された場合に想定される状況とはかけ離れている,③検甲第1号証を肉眼的に観察しただけでは,尿管が卵巣動脈と一緒に結紮されていることを確認することはできない上,B獣医師は,最も重要な証言部分ともいえる結紮状況について,結紮されていたと証言するのみで,その形状等の所見について具体的な説明をしていないのであるから,その証言は全く信用できないと主張し,尿管が結紮されていたとの事実を認めることはできないと反論する。そして,亡ミューズは,解剖時の腹腔内血管内血液のGOT及びGPTの数値がいずれも100単位を超えていること,腎実質の扁平化が進行していることから,亡ミューズは,本件手術前から存在した肝不全及び腎不全が本件手術あるいは本件手術の麻酔を契機として急速に悪化し,死亡したと主張す
る。
しかし,①について,B獣医師の証言によれば,卵巣動脈と尿管は近接した位置関係にあり,卵巣を十分に体外に出さない場合には結紮部位と尿管とは接近していること,尿管は背筋に接着されているわけではなく,しょう膜という薄い膜に覆われているにすぎないことが認められること,前記認定のように,本件手術後,被告が卵巣を捜すのに手間取ったと原告の妻に告げていることから,被告は卵巣の探索のために,亡ミューズの体内を鉤でさぐったことが推測され,その際に,尿管を引っかけた可能性があることからして,被告の主張を直ちに採用することはできない。
②については,B獣医師も証言するように,卵巣切除の際は卵巣をできるだけ引っ張り上げようとするのであるから,尿管を巻き込んだ時には尿管もともに引っ張られ,その結果,尿管が結紮部位よりも体内側にあり,切除箇所が結紮部位よりは幾分離れることから,卵巣動脈のみを切断することもあり得ることであり,B獣医師の証言が,尿管が結紮されてしまった場合に通常想定される状況とかけ離れているとはいえない。
また,③について,証人Bは,結紮部位周辺の状況について,結紮部から体側に向かって血管が一本見え,1センチメートルほど確認した,結紮部位から腎臓に至る尿管は,膀胱方向の尿管よりも膨れていた,膀胱から腎臓方向へ尿管の走行をたどっていったが,走行が途中で分からなくなり,結紮されていたのが分かったと,その状況について具体的に証言しており,結紮状況に関する証言が曖昧であるということはできない。
さらに,亡ミューズは,肥満気味ではあったが,本件手術前は健康な状態であったこと,それが本件手術後の短期間に死亡するに至ったこと,被告の主張する死亡原因では,本件手術後,尿がほとんど排出されていないことを説明するのが困難で,被告の主張を裏付けるに足りる間接状況等は示されていないことから,亡ミューズの死亡原因に対する被告の主張は理由がない。
したがって,被告の主張はいずれも採用することはできない。
(5) よって,本件手術に際して,被告が尿管を卵巣動脈とともに誤って結紮したことが亡ミューズ死亡の原因であることが認められ,これは診療契約上の注意義務に違反する行為であり,かつ,過失ある行為であるから,被告は債務不履行責任及び不法行為責任として,原告に対し,亡ミューズの死亡に対して損害賠償義務を負う。
2 争点2について
証拠(甲1,2,16,17,原告本人)及び弁論の全趣旨によれば,亡ミューズは,原告が子猫の時に30万円で猫のブリーダーから譲り受けた雌猫であること,優秀な血統を持つショーキャットであり,原告の下で,平成4年度の年間総合成績がアメリカンショートヘアー種1位,全種でも5位に入賞した実績があること,しかし,原告は,繁殖については考えておらず,実際,避妊手術を行おうとして本件手術を受け,5歳で死亡するに至ったこと,原告は,亡ミューズに対し,単なるショキャットとしてだけではなく,ペットとして家族の一員ともいうべき愛情を注いでいたことが認められる。
以上,原告が亡ミューズを30万円で譲り受けたこと,その後入賞した実績を有すること,亡ミューズによる繁殖は考えていなかったこと,その他弁論の全趣旨を総合すれば,亡ミューズの財産的価値は,金銭に換算した場合,本件手術時点で50万円と解するのが相当である。
そして,慰謝料については,証拠(原告本人)及び弁論の全趣旨を総合すれば,原告がペットとして家族の一員ともいうべき愛情を注いでいた亡ミューズが,被告の医療ミスにより,突如命を奪われたことに対する精神的苦痛は小さくなく,20万円をもって相当と認める。
また,医療費については,証拠(甲7の1)及び弁論の全趣旨を総合すれば,原告は,被告に対し,本件手術及びその後の治療費として2万5500円を支払ったこと,亡ミューズの解剖費用として7000円をB犬猫病院に支払ったことが認められる。これらの本件手術後の治療費及び亡ミューズの解剖費用も因果関係の範囲内の損害といえ,また,本件手術の費用は,被告の医療ミスにより亡ミューズが死亡し,避妊手術の目的を達することができなかったというべきであるから,結局,これについても被告が返還すべきものである。したがって,医療費等として3万2500円が損害として認められる。
そして,弁論の全趣旨を総合すれば,被告の過失ある行為との間で相当因果関係が認められる弁護士費用は20万円をもって相当と認める。
よって,亡ミューズの死亡により原告に生じた損害は,合計93万2500円である。
第4 結語
よって,原告の請求は,被告に対し,損害賠償金93万2500円及びこれに対する平成8年11月22日から支払済みまで民法所定の年5分の割合による遅延損害金の支払を求める限度で理由があるから,これを認容し,その余については理由がないからこれを棄却し,主文のとおり判決する。
宇都宮地方裁判所第1民事部
裁判長裁判官 永田誠一
裁判官 林 正宏
裁判官 宮田祥次
猫の出産に関して行った陣痛促進剤の投与が不適切なため死亡に至らしめたとして獣医師に求めた損害賠償請求が認容された事例[80万円を認容。死亡による精神的苦痛についての慰謝料請求は、愛玩用ではなく商品として飼育していたことを理由に否定](平成9・1・13大阪地判)判時判時1606・65→控訴
last update 02 December 1999
□猫の出産に関して行った陣痛促進剤の投与が不適切なため死亡に至らしめたとして獣医師に求めた損害賠償が認容された事例
(損害賠償請求事件、大阪地裁平8(ワ)2167号、平成9年1月13日大阪地裁民三部判決、一部認容、一部棄却(控訴))判時1606号65頁、判タ942号148頁。
《参照条文》 民法四一五条
原告 P
右訴訟代理人弁護士 ------
被告 d獣医科総合病院ことD
主 文
一 被告は、原告に対し、金八○万円及びこれに対する平成八年三月一五日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
二 原告のその余の請求を棄却する。
三 訴訟費用は、これを五分し、その三を被告の負担とし、その余を原告の負担とする。
四 この判決は、第一項に限り、仮に執行することができる。
理 由
[事実及び理由]
第一 請求
被告は、原告に対し、金一四○万円及びこれに対する平成七年六月一八日(損害発生の日)から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
第二 事案の概要
一 本件は、獣医師である被告が、原告の所有する猫の出産に関して行った陣痛促進剤の投与等が不適切であったとして、猫についての診療契約上の債務不履行(不完全履行)に基づく損害賠償を請求した事案である。
二 争いのない事実等
1 被告は、肩書住所地において、d獣医科総合病院の名称で動物病院(以下「被告病院」という。)を営む獣医師である。
2 原告は、「カリン」という呼称のアビシニアン種の猫(生後二年一か月)を所有していた。カリンは、平成七年五月ころから、二匹の胎児を懐胎しており、同 年六月一八日午後八時ころ、原告の自宅で産気づいた。そこで、原告は、被告に対し、同日午後九時三○分ころ、カリンの出産の処置を依頼し、被告は・これを 承諾した。3被告は、カリンに対し、陣痛促進剤を二回注射した。その後まもなくカリン及び二匹の胎児は死亡した。
三 争点
1 被告の過失の有無
(一)原告の主張
被告は、原告から猫の分娩に関する処置を依頼され、帝王切開によらず陣痛促進剤を使用することにより自然分娩させることを選択したのであるから、このよう な場合、副作用を伴わない安全な薬剤を選択し、かつ、用法及び用量を守って投与した上、安全に分娩を終了できるよう適切な診療をすべき契約上の注意義務が ある。しかるに、被告は、カリンについて体温、脈拍、心拍などの検査をすることなく、産道部に指を入れて触診したのみで、もつぱらヒト用の医薬品であり、 猫を対象とする使用は許可されていない「ウテロスパン」という名称の薬剤を、平成七年六月一八日牛後九時五○分ごろと同日午後一○時ごろの二回にわたっ て、それぞれアンプル一本の全量を漫然と注射し、しかも、その後カリンがぐったりしたにもかかわらず、何らの処置もしなかったのであるから、被告には、右 診療契約上の注意義務違反がある。
(二)被告の主張
被告の処置に不適切な点はなかった。被告がカリンに投与した陣痛促進剤は、プロスタルモンF五○である。
2 カリン及び二匹の胎児の死亡と被告の行為との間の因果関係
(一)原告の主張
カリン及び二匹の胎児の死亡は、被告による前記のようなウテロスパンの注射が原因である。
(二)被告の主張
カリン及び二匹の胎児の死因は不明である。
3 損害の有無及び額
(一)原告の主張
(1)カリンの死亡による財産的損害 三○万円
カリンは、アメリカ合衆国の愛猫家団体からチャンピオンの認定を受けており、ペットショップにおける店頭価格は、三○万円である。
(2)胎児の死亡による財産的損害 四○万円
胎児が生きて生まれたならば、一匹二○万円で売却できる予定であった。
(3)カリンの死亡による精神的損害 五○万円
原告は、カリンの死亡により精神的苦痛を受けたものであり、これに対する慰謝料としては五○万円が相当である。
(4)弁護士費用 二○万円
被告の債務不履行行為と相当因果関係のある弁護士費用の損害は二○万円である。
以上合計一四○万円
(二)被告の主張
右損害を争う。アビシニアン種の猫の店頭価格は五万ないし六万円程度である。
第三 争点に対する判断
一 事実経過
1 ≪証拠略≫によると、次の事実を認めることができる。
(一)カリンは、平成五年五月二一日に生まれた雌のアビシニアン種の猫であり、平成六年九月一五日及び平成七年一月二七日に、それぞれ、大阪市--区所在のA動物医療センターにおいて、帝王切開により子猫を二匹ずつ出産した。
(二)カリンは、平成七年六月ころから二匹の胎児を懐胎しており、同月二日、A動物医療センターにおいて診察を受けたところ、その経過は良好であり、同センタ一で出産を行う予定であった。
(三)カリンは、平成七年六月一八日午後入時ころ(以下、特に断りのない限り、同日のことである。)、産気づいたが、この日はA動物医療センターの主治医 が不在のため、同センターに帝王切開を依頼することができなかった。そこで、原告は、緊急に帝王切開を依頼することのできる獣医師をタウンページ(職業別 電話帳)で探し、広告を掲載していた被告病院を知った。原告は、午後九時ころ、被告に電話で、カリンが産気づいたこと及び過去二回の帝王切開による出産経 験があることを伝え、帝王切開ができるかどうかを尋ねたところ、被告はできると返答したので、原告は、被告に出産の処置を依頼することにした。
(四)原告は、午後九時三○分ころ、カリンを連れて被告病院に到着した。原告は、被告に対し、主治医から帝王切開が望ましいと言われていることを伝え、帝 王切開による出産を申し入れた。これに対し、被告は、カリンを診察台に乗せ、その産道部を触診し、自然分娩で出産できると言ったので、原告は、帝王切開で はなく、自然分娩によりカリンに出産させることを承諾した。
被告 は、午後九時五○分ころ、カリンの首に、陣痛促進剤としてウテロスパンの一ミリリットルアンプルー本分を注射した。その後、カリンは、診察台の上のバス ケットに入れられ、気張っているように見えたが、まだ出産しなかった。そこで、被告は、年後一○時ころ、原告に対し、もう一度陣痛促進剤を注射するから、 バスケットからカリンを出すようにと言ったが、原告は、気張っているようだからもう少し待ってはしいと頼んだ。しかし、被告は、カリンを触診し、午後一○ 時一○分ころ、カリンに再ぴウテロスパン一ミリリットルアンブルー本分を注射した。被告は、原告がカリンを被告病院に連れてきたときから二度目の注射をす るまでの間、カリンの体温や脈拍を計ったり、心音を聞いたりするなどの診察はしなかった。被告が二度目の注射をしたところ、カリンはぐったりし、気張る様 子もなかった。そこで、原告は、被告に対し、大丈夫かと尋ねたところ、被告は、このままでは産みそうにないから、翌日まで待って、主治医にみせるようにと 言い、タクシーを呼んだ。
(五)原告は、午後一○時二○分ころ、被告病院を出て、タクシーで、A大阪動物医療センターヘ向かった。それから二、三分したころ、タクシーの車内で、カリンを入れたバスケットが、がくがくと震えた。
原告は、午後一○時三五分、A動物医療センターでカリンの診察を受けたが、カリンは、既に心肺停止し、死亡していた。同センターの獣医師が、午後一一時ころ、カリンを開腹したところ、二匹の胎児も死亡していたが、カリンの子宮は破裂していなかった。
(六)原告が、同月一九日午前零時過きころ、被告に電話をかけて、カリンの死因を尋ねたところ、被告は、「注射を二本行って死ぬはずがない。」と答え、同 日の朝に原告から再度電話があった際は、「おまえとは話しにならん。第三者を問に人れるように。」と言って、原告との話合いに応じなかった。
2 被告は、カリンに投与した薬剤がプロスタルモンF五○であると主張し、乙第一号証(診療録)及び被告本人尋問の結果中にはこれに副う部分がある。
しかし、≪証拠略≫によると、次の事実が認められる。
(一)原告は、カリンの死亡に関し、被告を相手方として調停を申し立て、平成七年一○月三日の第一回期日において、被告に対し、カリンの診療録を持参し、 カリンに投与した薬品名を明らかにするよう求めたが、被告は、同年一一月一○日の第二回期日において、薬品名は説明したものの、診療録は持参しなかった旨 調停委員を通じて原告に回答し、その後も原告からの要求にもかかわらず、診療録は呈示されなかった。
(二)被告は、本件訴訟の答弁書では、陣痛促進剤投与の時刻を午後九時五五分及び午後一○時一五分である旨主張していたが、平成八年六月一四日付け準備書 面では、これを午後九時五○分及び午後一○時二○分である旨主張を訂正し、その後、診療録(乙一)が証拠として提出された(当裁判所に顕著である。)。
(三)右診療録の裏面には、「症状及経過」欄に「PM一○・○○」の記載があるほか、「処置及処方」欄の回行目に「プロスタルモンF五○」の記載がある が、さらに、その下に、午後九時五○分にプロスタルモンF五○を○・八ミリリットル投与し、午後一○時二○分にも同様に○・八ミリリットル投与した旨の記 載がなされている。
また、右「処置及処方」欄の二、三行目は、一旦書いた文字の上に重ね書きした痕跡が認められるが、被告は、本件尋問において、この部分に何が書かれているか説明することができなかった(後半部分は、当裁判所に顕著である。)。
(四)原告が午後一○時二○分ころに被告病院を出るときまでに、被告は、右診療録の裏面については、一行目から三行目までを記載しただけであった。
以上のような診療録の作成経緯、記載態様、これが原告や裁判所に呈示された経緯及ぴ時期に照らすと、乙第一号証のうち、被告の前記主張に副う部分は信用し 難い。また、被告がカリンに投与した薬剤に関する被告本人尋間の結果は、全体としてその供述が曖昧であり、薬品名を言い間違えるなどの点に照らし、信用し 難いといわなければならない。
他方、原告本人尋間の結果による と、原告は、血続の保証された猫を繁殖させ、これを販売することを業とするものであり、被告による二回目の陣痛促進剤の注射後、カリンがぐったりしたこと から、翌日にA動物医療センターで受診させる際、その薬品名を報告するため、注射後の空のアンプルを手にとって確認したというのであって、これらの点に照 らすと、被告がカリンにウテロスパンを注射した旨の原告本人尋問の結果は信用することができる。
二 ウテロスパンについて
≪ 証拠略≫によると、ウテロスパンはヒト用の陣痛促進剤であり、猫に対する使用は許されていないこと、ウテロスパンに含有される硫酸スパルテインは、子宮収 縮の増強及び子宮出血の治療の目的で、弛緩出血、子宮復古不全、人工妊娠中絶の場合に用いられること、硫酸スパルテインのヒト(成人)に対する一回の使用 適量は五○ないし一○○ミリグラムとされており、一○○ミリグラムが一ミリリットルのアンプルー本分に相当すること、ウテロスパンは子宮収縮力が強く、用 法を誤ると子宮破裂のおそれがあり、特に過去において異常出産や帝工切開の経験があるものは一層その危険性が高いこと、ウテロスパンは、心疾患のある患者 に対する投与が禁じられ、その投与により、動悸、不整脈等の循環器障害の副作用が生じるおそれがあること、ウテロスパンを動物に便用する際には、その健康 状態、産歴、胎児の体位、形状、位置及び子宮の状態や、循環器が正常に機能しているか、それに耐えられる生理的機能を有しているかを臨床的に確認する必要 があること、過去において異常出産や帝王切開の経験があり、あるいは子宮、胎児や循環器に異常がある場合には、投与を避けなければならないこと、以上のこ とが認められる。
三 争点1(被告の過失の有無)及び同2(因果関係)について
前記一、二によると、カ リンの妊娠の経過は順調であったにもかかわらず、被告が午後一○時一○分ころカリンに二回目のウテロスパンの注射をした直後、カリンはぐったりし、午後一 ○時三五分には既に心肺停止して死亡し、二匹の胎児も同日午後一一時ころまでには死亡していたこと、ウテロスパンは、猫に対する使用が許されていないこ と、ウテロスパンの投与により循環器障害の副作用が生じるおそれがあること、被告が二○分程度の間にカリンに投与したウテロスパンの量は、ヒトの便用適量 の二倍にもなるものであったことが明らかであり、他方、本件において、カリンの死亡がウテロスパンの注射以外のことに起因するとの立証は全くない。そうす ると、被告が、カリンにウテロスパンの注射をしたことにより、カリンに循環器障害が生じるなどして、カリン及び二匹の胎児が死に至ったものと推認せざるを 得ない。そして、被告は、前記一のとおり、カリンの産道部の触診を行ったのみで、胎児の状態やカリンの循環器の機能についての検査を行うこともなく、カリ ンに対し、猫には使用が許されていないウテロスパンの一ミリリットルアンプル二本をわずか二○分の間隔で漫然と注射したのであるから、被告には過失がある といわなければならない。
四 争点3(損害の有無及び額)について
1 カリン及び胎児の死亡による財産的損害合計 七○万円
≪ 証拠略≫によると、カリンは、アメリカ合衆国の愛猫家団体(CAF)からチャンピオンの認定を受けており、そのペットショップにおける店頭価格は三○万円 以上であること、カリンの胎児の父猫も前記団体からチャンピオシの認定を受けており、このような胎児一匹のペットショップにおける店頭価格は二○万円以上 であること、原告は、被告の診療中に、被告に対し、カリンと胎児の父猫がチャンピオンであることや胎児に関してはこれを引き取る客が生まれるのを待ってい ることなどを話したこと、以上の事実が認められる。
右事実によると、カリンの死亡による財産的損害及び胎児二匹の死亡による財産的損害は、原告主張のとおり、それぞれ三○万円、四○万円とするのが相当である。
2 カリンの死亡による精神的損害 ○円
原告は、さらにカリンの死亡による精神的損害の賠償を請求しているが、≪証拠略≫によると、原告は、カリンを愛玩用としてではなく、商品として飼育して いたこと(胎児も同様の予定)が認められるのであり、このことや、前記財産的損害の賠償額を考慮すると、原告がカリンの死亡により精神的苦痛を受けたこと は考えられるが、これに対して別途全銭的給付をもって償うべきほどのものと認めることはできない。
3 弁護士費用 一○万円
原告が原告訴訟代理人に本件訴訟の提起、追行を委任したことは当裁判所に顕著であるところ、本件は不法行為にも該当すると考えられること、本件事案の難易、審理経過、認容額等を考慮し、被告の債務不履行行為と相当因果関係のある弁護士費用の損害は、一○万円と認める。
五 結論
以上の次第で、原告の本件請求は、被告に村し、損害賠償金八○万円及びこれに対する訴状送達日の翌日であることが記録上明らかな平成八年三月一五日から支 払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める限度で理由があるが、その余は理由がない(なお、本件は債務不履行による請求であるか ら、損害発生の日から当然に遅延損害金が生じるわけではない。)。
(裁判長 裁判官 小佐田潔 裁判官 大数和男 裁判官 斎藤聡)
犬のフィラリア虫除去手術の際にその犬が死亡した事案において手術を担当した獣医に義務違反はないとされた事例(平成3・11・28東京地判)判タ787・211
last update 02 December 1999
□犬のフィラリア虫除去手術の最中に、その犬が心拍減少、不整脈を来して死亡した事案において、死因はフィラリア症及び心室拡大であって、手術を担当した獣医に義務違反はないとされた事例
債務不存在確認等請求事件、平成3年11月28日東京地裁民事第十部判決、判決平2(ワ)12875号、認容・確定。判タ787号211頁(1992.8.15)。《参照条文》 民法四一五条・七〇九条
原告 有限会社p
右代表者代表取締役 P
右訴訟代理人弁護士 ------
被告 D
右訴訟代理人弁護士 ------
主 文
一 被害の飼犬シェパード(牡。愛称「マリブ」)が平成二年九月二五日原告が営む動物病院において手術中に死亡したことにつき、原告が被告に対し何らの損害賠償債務も負わないことを確認する。
二 被告は、原告に対し、金五万一○○○円及びこれに対する平成二年一○月二六日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
三 訴訟費用は、被告の負担とする。
四 この判決は、第二項に限り、仮に執行することができる。
理 由
事実
第一 当事者の求めた裁判
一 請求の趣旨
主文同旨
二 請求の趣旨に対する答弁
l 原告の請求を棄却する。
2 訴訟費用は、原告の負担とする。
第 二当事者の主張
一 請求原因
1 原告は、前記住所地で、「p動物病院」(以下「原告動物病院」というを設置し、犬、猫をはじめとする動物に対する診療を業務とする会社であり原告会社、の代表者(以下「原告代表者」という。)は、獣医師であって、原告動物病院の院長である。
2 被告は、平成二年八月二七日、被告の飼犬のシェパード(牡。愛称「マリプ」。以下「本件飼犬」という。)を連れて原告動物病院を訪れ、原告代表者に対 し、本件飼犬が他の動物病院において犬フィラリア症に惟息していると診断されたことを告げて、フィラリアの検査及びフィラリアの成虫がいる場合にはそれを 除去する手術を委任した。
3 原告代表者がまず血液検査を行った ところ、本件飼主の血液中には無数のミクロフィラリア(フィラリアの子虫)が発見されたので、早晩その心臓に寄生するフィラリアの成虫を除去する手術が必 要と判断したが、血液中のミクロフィラリアの数をできる限り減少させてからその手術をする方が危険が少ないため、原告代表者は、被告に対し、ミコクニロ リーナーという経口薬を交付して、本件飼犬にこれを毎日投与することを勧めた。その後三回の血液検査の結果、平成二年九月一二日ごろ、開胸手術になじむ時 機が到来した。
4 平成二年九月二五日、原告代表者は、被告の要 請に基づきフィラリアの成虫を除去するため、原告動物病院において、心電図検査と超音波による心臓検査を行い、その結果、本件飼犬の心臓にフィラリアの成 虫を確認し、この心臓に寄生している成虫を除去するための開胸手術を始めた。しかし、心臓から成虫を取り除いている過程で、心臓の鼓動が弱まり、急遽閉胸 することにしたが、その措置中に本件飼犬は、犬フィラリア症と先天的心室拡張とに伴う心停止により、死亡した。
5 犬フィラリア症は、愛犬家が経口予防薬により通常予防し、かつ、一○○パーセントその予防の効果を上げることができるものであるのに、被告は、本件飼犬 について現実には全くその予防方法をとらないで本件飼犬がこれに罹患するに任せたため、本件飼犬が死亡するに至ったものであり、本件飼犬の死亡は、被告の このような管理の誤りに専らその原因があり、原告代表者には、その死亡につき、何らの過失も、責めに帰すべき債務不履行もなかった。
6 しかしながら、被告は、平成二年九月二六日、黒のスーツを着た男数名をひき連れて原告動物病院に押し掛け、原告代表者とその妻とに対し、「あの犬は、桶 川会の会長から預かつていたものだ。どうしてくれる?」、「誠意を見せろ。」「いつかお前がだれかに危害を加えられることだってあるかもしれないぞ。」な どと大声で威嚇し、暗に損害賠償金の支払を求め、被告に対し終始原告動物病院に何ら責任がない旨の説明をする原告代表者の話を聞こうとはせず、その後も、 被告は、原告に対し、損害賠償金を請求する姿勢をくずしていない。
7 ところで、前記開胸手術については麻酔料、手術料等合計金五万一○○○円(以下「本件診療報酬等」という。)を要したので、原告は、平成二年一○月一日到達の請求書をもって、被告に対し、右金員を同月五日まで支払うよう請求した。
8 よって、原告は、被告に対し、本件飼犬の前記死亡について原告が何らの損害賠償債務も負わないことの確認を求めるとともに、本件診療報酬等金五万一 ○○○円及びこれに対する本件訴状送達の日の翌日である平成二年一○月二六日から支払済みまで民事法定利率年五分の割合による遅延損害金の支払いを求め る。
二 請求原因に対する認容
1 請求原因1は、認める。
2 同2のうち、フィラリア除去手術の委任をしたことは否認し、その余は認める。
3 同3のうち、原告代表者が本件飼犬の血液検査をしたこと及び原告代表者がミコクロリーナーを交付してその経口投与を勧めたことは認め、その余は知らない。
4 同4のうち、フィラリアの成虫を除去するための開胸手術が行われたこと及びその開胸手術の過程で本件飼犬が死亡したことは認め、原告代表者が被告の要請 に基づきフィラリアの成虫を除去するため心電図検査と超音波による心臓検査及び本件飼犬の心臓に寄生している成虫を除去するための開胸手術を行ったこと並 びに本件飼犬の死因が犬フィラリア症と先天的心室拡張とに伴う心停止であったことは否認し、その余は知らない。
5 同5は、否認する。
6 同6のうち、被告が原告物動病院を訪れ、原告の誠意のない対応から若干強圧的な態度を示したこと及び平成二年一○月二五日に被告が原告に対し損害賠償の 請求をし、その損害として本件飼犬自体の時価金六○万円と慰謝料金二○万円との合計金八○万円を請求する意思であることは認め、その余は否認する。
7 同7のうち、原告が被告に対し本件診療報酬等の支払を請求したことは認めるが、被告のその支払義務については争う。
第三 証拠<省略>
理由
一 フィラリア成虫除去手術の委任の有無について
l 請求原因1(原告会社の業務、原告代表者の資格、地位等)の事実、同2のうち被告が平成二年八月二七日本件飼犬を原告動物病院に行かせ、原告代表者に対 し、本件飼犬が他の動物病院において犬フィラリア症に罹患していると診断されたことを告げて、本件飼犬について診療を依頼した事実及び同3のうち原告代表 者がまず本件飼犬の血液検査を行い、その血液中のミクロフィラリアを減少させるためのミコクロリーナーという経口薬を被告に交付して、本件飼犬に投与する ことを勧めた事実は、いずれも、当事者間に争いがない。
2 原告 代表者の尋問の結果及びく書証番号略>、証人Aの証言並びに弁論の全趣旨によれば、(1)被告は、本件飼犬を、平成二年八月二七日の初診の日の後、同年九 月五日及び同月一二日にそれぞれ原告動物病院に受診に行かせ、それぞれの日に、原告代表者が血液検査をしてミクロフィラリアの数を調べ、ミコクロリーナー 又はカルトメックというミクロフィラリア減少のための経口薬を交付して、その投与を勧めたこと、(2)同月二五日の約一週間前に、被告が原告代表者に電話 し、「本件飼犬についてフィラリアの成虫の除去のための手術を早くしてくれ。早くしないと危ないんじやないか。」との要請があり、原告代表者は、これに応 じて、平成二年九月二五日に手術をする旨を答えたこと、(3)同日午前九時ころ、被告は、本件飼犬を原告動物病院に行かせ、原告代表者は、本件飼犬を連れ てきた被告の被用者Aに対し、「午後一時から手術をするから、本件飼犬を原告動物病院に預けておき、午後一時に麻酔をする時まで立ち会うように」と告げ、 Aがこれを承知し、Aは、いったん被告の方に戻り、牛後一時に原告動物病院を訪れてその麻酔の処置に立ち会ったことの各事実を認めることができ、右認定を 覆すに足りる証拠はない。
3 以上1及び2の事実を総合すると、 被告は、遅くとも、平成二年九月二五日午前中までには、原告代表者に対し、原告動物病院において本件飼犬についてフィラリアの成虫を本件飼犬の心臓から除 去する手術をすることの申込をし、原告代表者がこれを承諾し、もって、被告と原告との間で右の手術を行う有料診療の準委任契約が締結されたことを推認する ことができる。
二 フィラリア成虫除去手術の実施と本件飼犬の死亡の原因について
1 平成二年九月二五日に本件飼犬についてフィラリアの成虫を除去するための開胸手術が行われたこと及びその開胸手術の過程で本件飼犬が死亡したことは、当事者問に争いがない。
2 <書証番号略>、原告代表者の尋間の結果並ひにく書証番号略〉によれば、次の事実を認めることができる。
(一) 犬のフィラリア症は、それが高ずると、顕著な症状が現れなくても、循環機能不全により、突然死の結果を生ずることがある危険な病気であるとされている。
(二) 原告代表者は、前記の九月二五H、開胸手術の前に、本件飼犬の心電図検査と超音波による心臓検査を行い、その心臓に著しい変化がないことを確認す るとともに、本件飼犬の心臓にフィラリアの成虫を確認し、これに続いて、自己を含む四人のスタッフが関与して、この心臓に寄生している成虫を吊り出し除去 するために必要な皮膚、筋、心のう等に対する最小限の切開をし、いわゆるスパゲッティ縫合糸を装着する等の、教科書に書かれているとおりの開胸手術を行 い、一三回にわたり、一○数匹の成虫を吊り出し除去した。
(三) この反復的な吊り出し作業の途中であったが、‐三回日の吊り出し後に、本件飼犬に心拍数の減少が現れ、四人のスタッフの判断で、除去作業を止め、心臓を 閉じることとし、心臓を実際に閉じて開胸手術に入ろうとしたところ、心臓の期外収縮が出、急追メイロン、アトロピンの静脈注射をしたが、一時心停止とな り、手で心マッサージをし、いったん回復したが、すぐまた、反応しなくなって心臓が停止してしまい、ついに死亡した。
(四) 本件飼犬が死亡した日の翌日の九月二六日、東京大学農学部獣医病理学教室で、B教授及ぴC教授により、本件飼犬の解割が行われ、右心室に約一○ 隻、右心房から大動脈にかけて万隻のフィラリア成虫が寄生していること、心室が左右ともに拡張し、特に右心室のそォtが著しく先天的心拡張であること、全 身にうつ血があること等が認められ、その死亡診断として、本件飼犬の主な死因がフィラリア症、副次的な死因が心室拡張と判定された。
(五) 犬の先天的心拡張は、極めて希有の症例であり、本件飼犬についても、開胸手術の際には、フィラリア症一般に見られるような通常の心拡張であると診断され たが、右解剖により、それが通常のものにとどまらず、先天的な心拡張であることが判明したものであり、これを手術前に予見することは不可能であったもので ある。
以上の事実が認められ、前掲A証言のうち本件飼犬の死亡については原告代表者の手術ミスもある旨の供述部分は、単なる推測の域を出るものではなく、前掲各証拠に照らしこれを採用することができず、他に右認定を覆すに足りる証拠はない。
3 右2 の認定事実によれば、本件飼犬は、主には、顕著なフィラリア症により、すなわちフィラリアの成虫の多数寄生により心臓が拡張して生じた血液循環等の循環機 能不全により、副次的には、他にはとんど例を見ない先天的心拡張のため生じた循環機能不全により、たまたま本件飼犬の開胸手術中に、その心停止が生じて死 亡したものと推認するのが相当である。
しかして、く書証 番号略>及び原告代表者の尋間の結果によれば、犬フィラリア症は、愛犬家が経日予防薬により通常予防している病気であり、その予防をしないとほぼ一○○ パーセント罹息するものであると同時に、その予防をしさえすれば、一○○パーセントその予防の効果を上げることができるものであることが認められるとこ ろ、前記一に判示した事実から推すと、本件飼犬は、原告動物病院に来院する相当以前にこれに罹患していたものであり、かつ、右の死因の認定が、結 局、本件飼犬が、本件開胸千術のときまでにはそのフィラリア症が究極の症状を示すまでの状態に達していたことを意味するものであるから、これらを総合すれ ば、被告は、本件飼犬について全くフィラリア症の予防方法をとらないで本件飼犬がこれに罹患するのに任せたため、本件飼犬が死亡するに至ったものであっ て、本件飼犬の死亡は、被告のこのような管理の誤りに基づくものというべきである。
したがって、本件飼犬の死亡により本件飼犬に対するフィラリアの成虫の除去手術の完遂という準委任契約に基づく診療の債務の履行が結果的に不能となった が、その債務不履行については、原告代表者ひいては原告には、その責めに帰すべき事由がなかったものといわなければならない。
それと同時に、以上の認定によれば、原告代表者には、本件飼犬の死亡につき、何らかの過失があったものとも到底いうことができず、他にその過失があったことを認めるに足りる証拠はない。
4 そうだとすれば、原告の請求のうち、原告が被告に対し、本件飼犬の死亡につき、原告が不法行為による損害賠償債務も、債務不履行による損害賠償債務も一切負わないことの確認を求める部分は、正当というべきである。
三 本件診療報酬等の支払義務について
<書証番号略>並びに原告代表者の尋間の結果によれば、前記のとおり本件飼犬に対して実施された開胸手術については麻酔料、手術料等合計全五万一○○○円 の本件診療報酬等を要したこと(請求原因7関係)が認められ、また、原告が平成二年一○月一日到達の請求書をもって被告に対し右金員の支払を請求したこと は、当事者間に争いがない。
右認定事実によると、前記一、3認定 のとおり、被告と原告との間で右の手術を行う有料診療の準委任契約が締結されていたのであるから、被告は、原告に対し、右の本件診療報酬等金五万一○○○ 円及びこれに対する本件訴状送達の日の翌日である平成二年一○月二六日から支払済みまで民事法定利率年五分の割合による遅延損害金を支払うべき義務がある ものといわなければならない。
四 よって、原告の請求は、いずれも、理由があるから、これを認容し、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第八九条を、仮執行の宣言につき同法第‐九六条第一項をそれぞれ適用して、主文のとおり判決する。
(裁判官 雛形 要松)
飼犬の死亡につき獣医師の診療上の過失ありとされた事例(昭和43・5・13東京地判)判時528・58[死亡による財産的損告および精神的苦痛に対する慰籍科として合計金5万円を認容]
last update 02 December 1999
□飼犬の死亡につき獣医師の診療上の過失ありとされた事例
(損害賠償請求事件、東京地裁昭四一(ワ)五九四七号、昭和43・5・13民十二部判決、一部認容、一部棄却)判時528号58頁。《参照条文》 民法七〇九条・民事訴訟法一八五条
原告 P
右訴訟代理人 弁護士 ------
被告 D
右訴訟代理人弁護士 ------
------
主 文
被告は、原告に対し、金五万円およびこれに対する昭和四一年七月五日以降完済に至るまで年五分の割合による金員の支払いをせよ。
原告のその余の請求を棄却する。
訴訟費用はこれを五分し、その一を被告の負担とし、その余を原告の負担とする。
この判決は、前掲第一項に限り、仮に執行することができる。
事 実
第 一 原告訴訟代理人は、「被告は原告に対し、金三○○、○○○円およびこれに対する昭和四一年七月五日から支払いずみにいたるまで年五分の割合による金員 を支払え。訴訟費用は被告の負担とする。」との判決ならびに仮執行の宣言を求め、その請求の原因として次のとおり述べた。
「一 原告は、昭和三六年四月頃、訴外Aより、同人の所有にかかる、ジュンという呼名の英ポインター種牝白茶猟犬一頭(以下、ジュンという。)を代金三○、○○○円で買い受けた。
二 被告は、肩書住所において○○家畜病院を経営する獣医師であるが、昭和四一年四月二日(以下、年月日につき、特に年月を示さない限り昭和四一年四月の ことをいう)。ジュンの出産に際し、ジュンを診察し、ジュンに帝王切開手術(以下、本件手術という。)を施し、七日までジュンを診療した。
三(一) ジュンは、二目、被告の診察を受ける前に、原告の肩書居宅において、仔犬一頭(以下、仔犬(一)という。)を分娩していたが、右仔犬はまもなく被告立会のもとに死亡した。
(二) 被告は、ジュンの膣内より、仔犬一頭(仔犬(二)という。)を引き出したが、右仔犬はまもなく被告立会のもとに死亡した。
(三) 被告は、本件手術により、ジュンの胎内より仔犬四頭を取り出したが、内三頭(以下仔犬ら(三)という。)はまもなく被告立合のもとに死亡した。
(四) ジュンは、十三日、東京都渋谷区--番地、財団法人日本動物愛護境界附属動物病院(以下、動物病院という。)病舎において、腹膜炎ならびに敗血症のため死亡した。
四 ジュン、仔犬(一)、(二)および仔犬ら(三)の死亡は、次のとおり被告の過失によるものである。
(一) 仔犬(一)の死亡は、被告に獣医師として瀕死の右仔犬に対して適当な処置を施す義務があるにもかかわらず、被告がこれを怠り、仔犬(一)を放置したために、発生したものである。
(二) 仔犬(二)の死亡は、被告に獣医師としてジュンが仔犬(二)を出産する際この自然出産を助成する義務があり、ジュンの腔内より仔犬(二)を引き出 す際これを死亡させぬようにする注意義務があり、また、引き出した仔犬(二)に対し応急の手当を加える義務があるにもかかわらず、被告がこれを怠り、不要 にもかかわらず強引にジュンの腟内から仔犬(二)を引き出し、かつ、これを放置したために、発生したものである。
(三) 仔犬ら(三)の死亡は、被告に獣医師として本件手術後直ちに仔犬ら(三)に対し、応急の手当を加える義務があり、かつ、被告一人でこれができない 場合に備えて、本件手術に際して助手を使用し、助手に右応急の手当を加えさせる義務があり、また、本件手術に際し、臍下三○針ぐらい縫う距雄を切開し、ま ず子宮を取り出した後その一部を切開して中の胎児を取り出す義務があるにもかかわらず、被告がこれを怠り、助手を使用せず、わずか五針縫う距離を切開した のみで、子官を取り出すことなく切開し、開腹目から手を入れて内部の仔大ら(三)を強引に引き出して破水させた後、まだ生きている仔大ら(三)を直ちに洗 面器の中に放り込んで放置したために、発生したものである。
(四) ジュンの死亡は、被告に獣医師として左記の注意義務が、あるにもかかわらず、被告がこれを怠り、左記のとおりの杜撰な手術を行い、その後の手当も左記のとおり杜撰であったために発生したものである。
(イ) 被告にジュンの自然出産を助成すべき義務があるにもかかわらず、これを怠り、翌日被告が家族と共にドライブに行く都合から、不要な本件手術を行なった。
(ロ) 被告にジュンを手術設備の整った被告の経営する病院に入院させたうえ本件手術を行なう義務があるにもかかわらず、被告はこれを怠り、何ら施設のない原告の肩書居宅の一室において本件手術を行なった。
(ハ) 被告に本件手術に際し手術用具を完全に消毒する義務があるにもかかわらず、被告はこれを怠り、消毒しないまま軽便カミソリを使用してジュンの腹部の毛を剃り、そのまま軽便カミソリを使用して、ジュンの腹部を切開した。
(ニ) 被告に本件手術後ガーゼを完全に腹腔内より取り出したうえ、まず子宮工手術創を縫合し、次に腹部皮膚手術創を縫合する義務があるにもかかわらず、被告はこれを怠り、ジュンの腹部にガーゼ数枚を放置し、子宮壁手術創を縫合しないまま、腹部皮膚手術創を縫合した。
(ホ) 被告が、四日朝、ジュンを診察した時、ジュンの腹部手術創から水様液が多量に流れ出たのに対し、被告にこれに対し必要な処置をなす義務があるにもかかわらず、これを怠り、ジュンを放置した。
(ヘ) 被告が、七日、ジュンを診察した際、ジュンの腹部手術創から腸が露出していたのに対し、被告に直ちに再手術する義務があるにもかかわらず、単に腸を手術創より腹腔内に押し込んで手術創をそのまま三針縫合したのみで、右義務を怠り、ジュンを放置した。
五 本件手術当時のジュンの価格は金一○○、○○○円、仔犬(一)、(二)および仔犬ら(三)計仔犬五頭の価格は合計金一○○、○○○円であり、原告は、 子供もなく、ジュンを我が子のごとく大切にしていたのであり、ジュンの死亡により被った精神的苦痛は甚大であってその精神的損害は金一○○、○○○円に相 当する。
よって、原告は、被告に対し、不法行為に基く損害賠償債務の履行として、金三○○、○○○円およびこれに対する訴状送達の翌日てある昭和四一年七月五日から支払ずみにいたるまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。」
第二 被告訴訟代理人は、「原告の請求を棄却する。訴訟費用は原告の負担とする。」との判決を求め、原告主張の請求原因事実につき、次のとおり答弁した。
「一 第一項記載の事実は否認する。
二 第二項記載の事実は認める。
三 第三項については、(1)記載の事実中仔犬(一)の死亡時に被告が立ち会っていた点は否認し、(二)(三)記載の事実中仔犬(二)および仔犬ら(三) の死亡が被告が右仔犬らを引き出し、または、取り出した後に被告立会のもとで発生した点は否認し、その余の第三項記載の事実は認める。
四 第四項(一)ないし(三)記載の事実はすべて否認する。被告がジュンの診察をした時には、仔犬(一)は既に死亡しており、被告がジュンの膣部を内診し たところ、仔犬(二)は逆児のため後肢が出口に触れて出ることができない状態であったため、被告は直ちに子宮鉗子を使用して難産の処置法に従って仔犬 (二)を引き出したが、右処置に着手する以前に仔犬(二)は死亡しており、また、被告が本件手術によりジュンの胎内より仔犬ら(三)を取り出した時には、 仔犬ら(三)は既に死亡していた。第四項(四)記載の事実については、被告が原告肩書居宅の一室において、軽便カミノリを使用して本件手術を行なったこ と、被告が本件手術後ガーゼの一部少量をジュンの腹腔内に遺留したこと、被告が四日朝ジュンを診察した際「ジュンの腹部手術創から水様液が流れ出ていたこ と、被告が、七日朝ジュンを診察した際、ジュンの腹部手術創がら腸が露出していたのに対し、これを腹腔内に押し込んだうえ手術創をそのまま三針縫合したこ とはいずれも認め、その余の事実はすぺで否認する。ジュンは一日朝から陣痛を起し、二目夕方被告が診察した時には、呼吸速迫し、長時間の陣痛の苦しみによ り相当衰弱しており、被告が仔犬(二)をジュンの腔内から取り除いた後も次の仔犬を分娩せず、陣痛促進剤アトニンを六本も二○分ないし三○分の間隔をおい て注射したにもかかわらず陣痛微弱で分娩にいたらず、ジュンは次第に衰弱してくるし胎児も胎動がないので、このまま放置すると母子ともに死亡する危険があ ると判断され、しかも、この衰弱状態ではジュンを移動することは適切でなく、かつ、緊急を要するために原告の同意を得て、原告肩書居宅の一室において、胎 児の死亡を避けるため全身麻酔をやめ、クロールプロマジン一○○○CCを筋肉注射し、局所に塩酸プロカインの麻酔を施したうえ、アルコールで消毒した軽便 カミソリを使用して、本件手術を行なったものである。また、被告ジュンの腹部皮膚および子宮壁を切開して胎児の入っている子宮を検したところ、既に胎児は 破水死亡して微動だにせず、子宮は暗紫赤色となり壊死を起こして脆弱になっていたので、染毒を防止するため煮沸したガーゼを挿入して仔大ら⑰を取り出した のであり、ジュンの死亡原因である腹膜炎ならびに敗血症は、この支給の壊死により発生したものである。さらに、被告は、ジュンの腹腔内にペニシリン溶液を 注入して、切開面の二重縫合を行ったうえ、マーキュロクロームで消毒して創面に外用フラジオマイシン粉末を塗布して本件手術を完了し、ジュンの衰弱が甚だ しいため酸素吸入を行い、リンゲル五○○CC皮下注射、ペニシリン、ストレプトマイシンの注射、犬血清アルブミンの静脈注射を行ない、強心等の処置を施し た。その後、被告は四日、五日および七日ジュンを往診処置し、七日朝の往診の時、手術創が一部移開し腸が一部露出していたため、応急の処置として三針縫 い、原告と再手術の約束をして、準備を整えて再び原告肩書居宅に赴いたところ、原告は右約束に反し不在であった。
五 第五項記載の事実はすべて否認する。」
第三 被告訴訟代理人は、抗弁として次のとおり述べた。
「一 原告は、昭和三七年八月一六日、訴外B、C、D(以下、Dという。)に対し、ジュンを売り渡した。
二 仮に、右主張事実が認められないとしても、ジュンは昭和三七年八月一六日から死亡にいたるまでDを所有者として登録され、Dがジュンにつき納税義務および狂犬病予防注射義務を負担してこれを果しているから、Dは昭和三七年八月一六日、ジュンの所有権を取得した。
三 仮に、右主張事実が認められないとしても、右のごとき事実のもとでは、原告のジュンに対する所有権は、被告に対抗できない。
四 仮に、右主張が認められないとしても、昭和三七年八月一六日からジュンの死亡にいたるまで、原告もDもジュンがD名義で登録されていることを知り ながら、ジュンの所有名義変更をしなかったので、禁反言の原則に照らして、原告は被告に対しジュンの所有権を主張することができない。
五 原告は、昭和四一年四月一五日、被告に対し、書面により、被告が動物病院に対し、ジュンの入院料、手術料等一切の原告が同病院に対して負担した債務 を弁済することを停止条件として、本件手術により被告が原告に対して負担した不法行為に基く損害賠償債務を免除する旨意思表示をなし、そのころ同所面は被 告に到達した。
六 被告は、昭和四一年四月十八日、動物病院に対し、原告が同病院に対して負担した右債務全額を弁済した。
第四 原告訴訟代理人は、被告主張の抗弁事実につき、次のとおり答弁した。
「一 第一項記載の事実は否認する。
二 第二項記載の事実中Dが昭和三七年八月十六日ジュンの所有権を取得したとの被告の主張は争い、その余の事実はすべて認める。
三 第三項記載の主張は争う。
四 第四項記載の事実中原告およびDがジュンがDの所有名義で登録されていることを知っていた点は否認し、ジュンの所有名義変更をしなかった点は認め、その余の主張は争う。
五 第五項記載の事実は否認し、第六項の記載の事実は認める。
第五 証拠《略》
理 由
一 《証拠略》によれば、ジュンは、昭和三六年四月頃、原告において、訴外Aより代金三○○、○○○円で買い受けたものであって、原告の所有に属する猟犬である事実を認めることができる。
(《証拠判断略》。なお、被告は、前記第三の一、二において、昭和三七年八月十六日Dはジュンの所有権を取得したと抗争するが、被告の右主張事実を認める に足る証拠はなく、そもそも、納税や狂犬病予防注射のための登録名義は、犬の所有権についての対抗要件をなすものではないし、所有権の公示を目的とするも のでもないから、前記第三の三、四の被告の主張も理由がないいものというぺきである。)
二 被告が肩書住所において○○家畜病院を経営する獣医師であり、昭和四一年四月二日、ジュンが出産するに際し、ジュンを診察し、ジュンに本件手術を施し、 七日までジュンを診療したこと、ジュンが、二日、被告の診察を受ける以前に、原告肩書居宅において、仔犬(一)を出産し、被告が、ジュンの腔内より仔犬 (二)を引き出し、さらに、本件手術により、ジュンの胎内より仔犬ら(三)を取り出したが、右仔犬らはいずれも死亡したこと、ジュンが、十三日、動物病院 病舎において、腹膜炎ならびに敗血症のため死亡したことは、いずれも、当事者間に争いがない。
三 そこで、仔犬(一)の死亡について判断すると、原告は、被告が、二日、ジュンを診察した際、仔犬(一)はまだ生きていた、と主張するが、この点に関する 《証拠略》はあいまいで的確な証拠とはなし難く、他に原告の右主張事実を認めるに足る証拠はなく、却って、《証拠略》によれば、被告が、二日、ジュンを診 察した時には、既に仔犬(一)は死亡していたと認められる。されば、原告の、仔犬(一)の死亡による、被告に対する不法行為に基く損害賠償の請求は、その 余の点につき判断するまでもなく、失当というべきである。
四 次 に、仔犬(二)の死亡について判断すると、原告は、被告はジュンが仔犬(二)を出産する際その自然出産を助成すべきであったたのに、強引にジュンの膣内か ら引き出した、と主張するが、《証拠略》によれば、被告が、二日、ジュンを診察した時には、ジュンは、一日朝からの陣痛により呼吸速迫して衰弱しており、 被告がジュンの膣部を内診したところ、仔犬(二)は逆児のため後肢が出口に触れて出ることができない状態であった事実を認めることができ、さらに、被告が 強引にジュンの膣内から仔犬(二)を引き出したことを認めるに足る証拠はなく、また、仔犬(二)がまだ生きていて被告において仔犬(二)に対しなんらかの 応急の手当をなすぺき状況にあったと認めるに足る証拠はなく、却って《証拠賂》によれぱ、仔犬(二)は長時間膣に締めつけられたため、被告が引き出した時 には既に死亡していた事実が認められる。されば、原告の、被告に対する、仔犬(二)の死亡による不法行為に基く損害賠償の請求も、その余の点につき判断す るまでもなく失当というべきである。
五 次に、仔犬ら(三)の死亡 について判断すると、原告は、仔犬ら(三)は被告が取り出した時はまだ生きていたと主張するが、原告の右主張事実を認めるに足る証拠はなく、却って、《証 拠賂》によれば、被告がジュンの腹腔内から仔犬ら(三)を取り出した時には、既に仔犬ら(三)はいずれも破水のため死亡していたことが認められる。また、 披告の本件手術における、切開程度および子宮を取り出した後にその一部を切開するという、仔犬ら(三)の取り出しの過程自体になんらかの不手際があったも のと認めるに足る証拠もなく(《証拠判断略》)、却って、《証拠略》によれば、仔犬ら(三)とともに誕生した仔犬一頭が現在なお生存している事実を認める ことができる。されば、原告の、被告に対する、仔犬ら(三)の死亡による不法行為に基づく損害賠償の請求も、失当というべきである。
六 最後に、ジュンの死亡について判断すると、前叙認定のとおり、被告が、二日、朝からの陣痛により呼吸速迫して衰弱していたのであり、また、《証拠略》に よれば、被告が仔犬(二)をジュンの膣内から取り除いて産道を開いてやった後も次の仔犬を分娩せず、陣痛促進剤アトニンを六本も二○分ないし三○分の間隔 をおいて注射したにもかかわらず陣痛微弱で分娩にいたらず、ジュンは次第に衰弱してくるし、胎児も胎動がなかった事実を認めることができ、右認定事実に照 らせば、本件手術は、原告主張の如き不要のものではなかったばかりか、むしろ、必要であったといえるのであ(る)《証拠判断略》。また、右認定事実のもと では、被告がジュンを病院に移動させることなく、そのまま引き続いて原告の肩書居宅内の一室で本件手術をしたからといって、急を要した時のことゆえ、あえ て責められぬ事情にあったものと認められる。次に、原告は被告は消毒しないまま軽便カミソリを使用してジュンの腹部の毛を剃り、そのままの軽便カミソリを 使用してジュンの腹部を切開した、と主張し、《証拠略》中には右主張にそうがごとき部分があるが、必ずしもこれを全面的に措信することができず、《証拠 略》によれば、被告が本件手術をするに際しては、有窓布、ガーぜ、脱脂綿、止血用具、鉗子、縫合器等手術用具を煮沸消毒し、軽便カミソリをアルコールで消 毒した後にジュンの腹部皮膚を切開したことが認められ、他に右認定事実をくつがえすに足る証拠はない。しかし、《証拠略》によれば、アルコール消毒では完 全とはいえず、できれば、完全滅菌したメスをしようすべきであったと認められる。次に、被告に本件手術後ガーゼを完全に腹腔内より取り出したうえ、まず、 支給手術創を縫合し、ついで腹部皮膚手術創を縫合する義務があるにもかかわらず、被告はこれを怠り、ジュンの腹部にガーゼを数枚放置し、子宮壁手術創を縫 合しないまま腹部皮膚手術創を縫合したとの原告主張事実については、被告が子宮壁手術創を縫合しないまま腹部皮膚手術創を縫合したという事実を認めるに足 る証拠はないが、ガーゼの腹腔内遺留の事実自体については被告の認めるところである。また、原告は本件手術後における被告の処置を非難する。なるほど、被 告が四日朝ジュンを診察した際にジュンの腹部手術創から水溶液が流れ出ていたこと、被告が七日朝ジュンを診察した際、ジュンの腹部手術創から腸が露出して いたこと、その際、被告がこれを腹腔内に押し込み、手術創をそのまま三針縫合したことは、いずれも被告の認めるところではあるが、また、《証拠略》によれ ば、被告は、本件手術後、ジュンが非常に衰弱していたのでその夜中に、ジュンに酸素吸入をしたり、犬血清アルブミンの注射をしたりしたこと、四日から七日 までほとんど毎日ジュンを往診し、六日頃、縫合部位から少し汁が出てきたが、そのままでも創口が開く場合もあるので様子をみることにしたこと、ところが、 七日に診察の際、腸が創口からちょっと出かかっていたので、再縫合しなければならなくなったが、再手術するまで、腸がそれ以上でないように応急的に三針縫 い、後刻、再手術することにしたこと、その後、再手術のため、被告が再び原告方に往診に、赴いた時には、原告が不在であったこと、そして、その間に原告が ジュンを移動して動物病院に入院させていたことが認められ、他に右認定を左右するに足る証拠はない。右認定の事実によれば、本件手術後における被告の手当 が、殊に原告主張の如き獣医師としての注意義務を欠いた杜撰なものであると知なければならぬほどのものとはみとめられない。
七 以上認定したところによれば、本件で被告の獣医師としての診療上の注意義務の懈怠の有無が主として問題となるのは、結局、アルコール消毒しただけの軽便カミソリで本件手術を行った点とガーゼの体内遺留の点である。
《証拠略》によれば、被告は、四月二日本件手術の際、ジュンの子宮を胎児が入ったまま手術創から取りだし、子宮内の液が外にこぼれないように、また、こぼ れても腹腔内に侵入しないようにするため、煮沸消毒したガーゼを手術創の周囲の腹腔内に挿入したことが認められる。そして、《証拠略》によれば、四月八日 動物病院のE獣医師がジュンを再手術して開腹したところ、勝胱の基部背側に鶏卵大異物状塊があって腸管に癒着しており塊を圧すると黄色腹が流出し、検する と、それはガーゼ塊で、腸管管膜に癒着し、癒着を剥離すると、ガーゼ塊の深部は子宮体部の切断部に圧定されていたものの如く残置されでいたこと、そして、 そのガーゼ塊は一五センチメートル角のガーゼ七枚が重ねられたまま塊状に丸められたものであることが判明したことが認められ(もっとも、被告が、本件手術 後、一部のガーゼをジュンの腹腔内に遺留したこと自体は、被告も認めるところてある。)、その後、ジュンが四月一三日腹膜炎ならびに敗血症のため死亡した 事実は当事者間に争いがない。原告は、ジュン死亡の直接原因は腹膜炎と敗血症であるが、右致命傷を発生せしめたのは、被告の不注意に基づく杜撰な手 術であると主張する。なるほど、開腹手術後、体内にガーゼが遺留しているということは、施術者に不手際のない限り、通常あり得べからざることであるから、 ガーゼ遺留については施術者たる被告に過失があり、更に、その結果との因果関係についても、特段の事情の認められぬ限り、一応の推定が許されよう。何とな れば、獣医学関係においても、一般の医学関係の場合と同じく、高度の専門的分野における施術上の過失の有無の認定については、いわゆる過失の一応の推定の 理論が認められてしかるべきだからである。ところで、《証拠略》によれば、四月七日前川獣医師がジュンを診察した時には、血液、体温、脈拍等の検査結果か らみて、すでに相当高度の腹膜炎を併発した敗血症を起こしており、その端緒は本件手術の後に惹起されたものであることは否定できないこと、それは、細菌の 感染によるものであるが、感染の経路としては、(1)一般に難産で、しかも、子宮内にある程度の感染があった場合には、子宮の処理が悪いと腹腔内に感染を 起こす、また、(2)手術の手技、あるいは、手術器具機材の中に細菌をもったまま手術をするとそれによって腹腔内に感染を起こす、との二つの場合が考えら れること、ジュンの場合、一番大きく壊死を起こしていて膿が非常に貯留していたのは子宮断端部であったことが認められる。右認定の事実並びに前認定の通り 急を要したことゆえ、やむを得ないことではなったが、被告が、病院の手術室ではなくて原告の肩書居宅内の手術用の設備のない一室で、しかも完全滅菌とまで は保証し難いアルコール消毒による軽便カミソリを使用して本件手術をしたこと、また、被告が、一応煮沸消毒をしたこてゃいうものの、十五センチメートル角 のガーゼを七枚もジュンの腹腔内の化膿の原発巣と認められる子宮断端部に遺留したことを合わせ考えると、本件手術の際に細菌感染の機会が公然なかったとは とうてい談じがたい。従って、ジュンの腹膜炎並びに敗血症による死の転帰は、本件ガーゼ遺留等、被告の本件手術の際における、施術上の不手際、過失による ものと一応推認する事ができ、右推認をくつがえすに足る事情は、むしろ、施術者たる被告において立証すべきところ、本件口頭弁論にあらわれた全証拠をもっ てしても右認定をくつがえすには足りない。
してみれば、被告は、すくなくとも、ジュンの死亡に関する限りは、原告に対し、不法行為による損害賠償債務の負担を免れないものといわなければならない。
八 そこで、ジュンの死亡による損害額につき案ずるに、ジュンの取得価格は前認定のとおり金三万円であったが、その死亡当時における客観的価格がいくらで あったかを確定的に認めるに足る証拠はないが、なにがしがの財産的価値を有していたであろうことは十分推認できること、また《証拠略》を総合すれば、原告 には五十才の坂をこえた今日まで実子がないところからジュンを狩猟用の愛犬として飼育していたことが認められることをあわせ考えると、ジュンの死亡によっ て、原告の蒙った損告は、その財産的損告および精神的苦痛に対する慰籍科として合計金五万円とするを祖当とし、被告は、原告に対し、右金五万円およぴこれ に対する本件訴状送達の日の翌日であることの明らかな昭和四一年七月五目以降完済に至るまで民法所定年五分の割合による遅延損害金を支払うベ義務がある。
九 被告は、原告は被告が動物病院に対するジュンの入院料、手術料等一切の債務を弁済することを停止条件として本件不法行為による損害賠償債務を免除した、 と主張するが、《証拠略》をもってしても被告の右主張事実を認めるに足らず、他にこれを認めるに足る証拠はないから、その余の点について、判断するまでも なく、被告の右免除の抗弁は理由がない。
一○ よって、原告の本訴請求は、以上認定の限度で正当として認容し、その余を失当として棄却すべく、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第八九条第九二条本文、仮執行の宣言につき同法第一九六条第一項に徒い、主文のとおり判決する。
(裁判官 関口文吉)